Free paper Dio (ディオ) vol.12  2012.8.20 exhibition  page1


中島菊夫を紹介する展覧会のお知らせ

 

       漫画家‐中島菊夫の資料が、中野区立歴史民俗資料館で初公開されています。

 没後50年記念

 日の丸旗之助の作者 中島菊夫と中野の子どもたち (9/2まで)

 中島菊夫(明治30年〜昭和37年)は、高知県出身の漫画家で、上京して後、中野鷺宮に住みました。代表作の「日の丸旗之助」ほか多くの子ども漫画を描いています。
 本展では、漫画資料やスケッチなどのほかに、戦中に教員を務めた国民学校の生徒にあてた直筆の
『慰問新聞』が紹介されています。疎開した子どもたちのために、絵入りの「鷺宮だより」や、動物が登場する漫画や絵物語を描いたものです。
   同時に、菊夫自身が保管していた疎開生活を描いた子どもたちの絵も、出展されています。漫画家と子どもたちの戦中生活を、希少な資料で伝える企画展といえます。

      























               
(展覧会チラシ)


 「日の丸旗之助」を『少年倶楽部』に書き
 始めた頃の中島菊夫(昭和
10年夏)


 中野区立歴史民俗資料館(03-3319-9221

    
    
    〒
165-0022 東京都中野区江古田四丁目34

     JR中野駅よりバス利用、江古田2丁目バス停下    
    車、徒歩2分


             

遊・学 あんない
  Vol.12  2012.8.20 発行

free paper Dio(ディオ)

   編集発行 Dioの会  代表 福嶋朝治
   山梨県北杜市小淵沢2957-1 
   電話 0551-36-6052
   eメール kizansou@mx3.nns.ne.jp

free paper DioHP「三木露風文学館URL:http://www3.nns.ne.jp/pri/kizansou」からお届けします。

Dioの会HPhttp:// dio.justhpbs.jp)では、ブログをご覧いただけます。




Free paper Dio (ディオ) vol.12  2012.8.20 essay  page3

 

                                           蔵書は処分してしまおう

 自分が亡くなったあと、蔵書はどうなるのか? ということは、それなりの年齢の方なら

ば、それなりに考えることだと思う。


 亡くなってから家族に整理させるのは申し訳ない。古本屋に売ってくれればまだ良いが、

ゴミとして捨てられたのではたまったものでない。それに価値のわかる古本屋でないと二足

三文で買い取られるだけだ。

 
 だが、亡くなる前に整理しておきたいと思っていても、急に整理を始めたりすると、それは

なんだか自分に死が近づいている予感めいた気がして、ついつい先送りにしてしまう。

 
結論から言うと、一番、良いのはなるべく早めに自分で古本屋に売ってしまうことだ。間違

っても『捨ててしまうのは忍びない。だから図書館や公共機関に寄贈して役立てて欲しい』

などとは、考えないほうがいい。


   図書館に聞くと、この手の蔵書寄贈の申込はけっこう多いらしい。図書館としては(図書

館にとって)珍しい本なら寄贈を受けるが、(図書館にとって)関心のないものはご遠慮願

うというのが基本的なスタンスらしい。


 などと、イヤミに書くには訳がある。
 
中島靖侃先生というイラストレーターがいる。靖侃先生は雑誌〈SFマガジン〉の創刊号か

8年間、表紙を手掛けられた、SFの世界では知られたイラストレーターだ。この靖侃先

生の父親が中島菊夫の筆名で知られる漫画家である。雑誌〈少年倶楽部〉に漫画「日の丸旗

之助」を連載し、大ヒットを飛ばした。田河水泡「のらくろ」や島田啓三「冒険ダン吉」と

並んで人気があったという。


 靖侃先生は現在、宮城県は仙台に住んでいる。あの東北地方太平洋沖地震で被害を受けた

土地である。そのため靖侃先生の住まいも影響を受け、引越しを余儀なくされた。その際、

自身が描いた〈SFマガジン〉の表紙の原画や挿絵、また、父・菊夫の漫画や原画などの処

理に困られた。まさに、ゴミとして捨てるのも忍びなく、という状態だったのだ。そのた

め、ならばとそれらをそっくり引き取らせて頂くことにした。


 そしてまず、中島菊夫の漫画、原画の寄贈先を探すことから始めた。漫画研究家の知人を

頼り、漫画専門機関にその旨を打診した。結果、漫画は引き取れるが、原画はご遠慮願いた

いとのこと。ギャグ漫画的に言えば「ギャフン」な返事だ。もちろん、それは保存の問題な

ど、事情あってのことだと思うし、理解も出来る。

 
 マンガは日本が誇る文化だといわれ、オタクという言葉は世界共通の用語となった。マン

ガ・アニメのミュージアムは日本全国に
60施設ほど存在しているという。しかしそれらの施

設に打診して廻っても、簡単には行かないものだと初めてわかった。

 
 そう考えると、自分の蔵書なんてものはたいした価値などあるはずもなく、なるべく早い

うちに自分で古書店に売ってしまうのが良い、と思ってしまうのだ。
(大橋博之 ライター)


Free paper Dio (ディオ) vol.12  2012.8.20 essay  page4

 

                                 認知症の発症と進行の予防に川柳を

                                                                      松崎 茂 
 日本では人々の高齢化に伴い、認知症になる人が年毎に増え現在では200万人以上にも

なっている。今後、この患者数はますます増加することは確実である。認知症の内ではア

ルツハイマー型が最も多く、遺伝的関与が強い若年型を除くと、生活習慣が大きく影響し

ていることが知られている。
  認知症になり易い人には幾つかの特徴がある。まずは、趣味を持たない人、超まじめ人

間、何もしないでぼんやりと過している人、何事も後ろ向きに考える人、なんでも他人の

せいにする人、友だちが少ない人、無関心・無感動の人、さらに心に悩みのある人も呆け

やすいと言われている。
 物忘れを意識するようになったら、手遅れにならないうちに認知症にならないように策

を講じるべきである。それにはまず適度の運動、休養および睡眠、バランスの取れた食べ

物を摂ることなどが大切である。
 さらに陶芸、華道、絵画、著作などの趣味が認知症予防に有効であることを心にとめる

べきである。その中でも、川柳は滑稽で笑いを誘うものが多いが、笑いは非常に有益なこ

とであることが医学的にも証明されている。認知症の人々でも軽度であれば、その面白さ

を理解することができる。このように他人の作品を読むだけでも、かなり有益である。
 川柳を自分で作る場合でも、俳句のように季語という制約がないので気楽に始めること

ができる。自然現象、政治経済、人生観、喜怒哀楽など多くのことが題材となり得るの

で、自分の好みに合ったものを選ぶことができる。これはと納得できる
作品を、新聞や雑誌に投稿するとさらに益となる。採用された時の興奮は、ほかの事で

は代えられないものである。このような感動も認知症の進行を遅らせると考えられる。川

柳の同好会に出席すれば、同好の人々とも親しくなることができるのでこれも認知症対策

として有効である。
 どのような秀作を作ろうかと絶えず考えていることは、脳の鍛錬になる。川柳の達人で

ある友人は、「川柳は非常に奥が深い」と語っている。つまり、途中で飽きてしまうよう

なものではなく、いつまでも没頭できるのである。認知症予防に有効と考えられる川柳に

もっと多くの人々が注目することが望まれる。

 


 ree paper Dio (ディオ) vol.12  2012.8.20 bookreview  page5

     新刊紹介T

            『街場の文体論』(内田 樹 著、2012.7.30、ミシマ社)  

                                    文責:鍋山 大輔

 本書は、既に退官された内田氏が大学で行った最後の講義の記録を元に再構成したもの

である。学生に話しかけているため話題は広がりやすいが、様々な話題が主題をより豊か

なものとしている。単に論理的に解明していくのではない著者の語りにより“聞き入る”

ように読める一冊となっている。
 本書は、学生が宿題として提出したショートストー

リーへの評価をもとに「生成的な言葉とは何か」という問いについて言及されている。結

論を出さないオープンエンドで締めくくることで、「言葉を生み出す自分の姿」を常に振

り返り続ける姿勢を促している。「生成的な言葉とは何か」の問いに対して、視点を提示

しながら話は進む。前の視点が後の視点でより具体的に解釈されていく。最初の視点とし

て「情理を尽くして語る」が提示され、最後の視点である「届く言葉」まで、相手や他者

を前提として生み出される“伝えたい”という言葉の本質を一貫して訴え続けている。著

者は、ソシュールのアナグラムとバルトのエクリチュールを用いて、我々が言葉にかかわ

る際の「自由であり制約されている」という両義的なありようを示す。我々は言葉を生み

出すことはできるが、なぜその言葉が生み出されたのかについて知る術をもたない。生み

出される可能性があったであろう他の言葉がなぜ生み出されなかったかを推理しても、無

意識下の更に下のレベルで「縁の下の小人さん」なる不思議な存在が、取捨選択にかかわ

っている。それ故に「ああそうだったのか」と発語の主体である“私”すら驚くことがあ

る。言葉を生み出す人間の底知れなさと生成過程の一部しか意識できない不自由さを我々

は持っているのだ。バルトの「エクリチュール」という視点が提示される辺りから、『街

の文体論』が具体的な姿を現してくる。フランスの階層的なエクリチュールに対して日本

は知的な階層構造を持ちにくいため、様々な読者を想定し多様な語彙を用いて本が書かれ

る。その過程で生み出される言葉には、書き手がこれまで身体化してきた先行的なテクス

トが根底にある。既成の言葉ではあるが“私”が自由にコントロールできるものではな
い。

そして書き手の“私”を驚かせてくれるバグが含まれている。著者は、このような言語の

冒険をする条件として、定型(我々で言えば日本語)を十全に身体化し内面化することを

挙げている。

 
 著者は、執筆活動を通して実感した言葉への身体感覚を様々な言語理論を用いて伝えて

くれる。その中に我々が気づくことができない「縁の下の小人さん」という領域がある。

この領域は言語という枠の中に生きる我々の存在規定にも大きくかかわるのではないだろ

うか。ハイデガーの『存在と時間』は話題としてのみ書かれているが、『言葉への途上』

も含めた存在論における言葉の重要性をより具体的な姿として再解釈するヒントが隠され

ているようにも思える。本書は、読み手の一人一人が“学生となって”自分にとっての言

葉との向き合い方を改めて考えられる一冊となっている。



Free paper Dio (ディオ) vol.12  2012.8.20 book review  page6

 

    新刊紹介U

                    女が嘘をつくとき (新潮社刊 20125月)

                                                                                     リュドミラ・ウリツカヤ作

                                                                    沼野恭子訳

女性心理をうがったエッセイのようなタイトルだがれっきとした小説集である。内容

6編からなる短篇集。原題は「貫く線」。全篇を女の嘘が主題になっているので表題

に意訳したと訳者は説明する。主人公はいずれもジェーニ

ャという女性であるが、彼女はむしろ聞き役というかだま

され役という立場を与えられ、それぞれの作品ごとに異な

るだまし役の人物が設定されている。
 「ディアナ」で

はアイリーンという別荘の主人、「ユーラ兄さん」ではナ

ジャという少女、「筋書きの終わり」ではリャーニャとい

13歳の少女、「自然現象」ではマーシャといううら若い

女子高生、「幸せなケース」ではクラブのロシア人娼婦リ

ューダ、「生きる術」では幼友達のリーリャがそのだまし役を演じる。
 ナージャは架空の兄を語り、リャーニャは画家の伯父と無鉄砲な恋愛に夢中である。

リューダはヘロインに冒されて妄想を語る。聡明で誠実なインテリのジェーニャは、何

れの語りにも同情したり困惑したりしながらだまされ続けるのだが、とどのつまりはそ

れらが嘘の大法螺であることを暴くという筋書きが主流になっている。ただ、「自然現

象」ではだまし役がアンナというジェーニャの大学時代の恩師で、リーニャがだまされ

役、ジェーニャが暴き役を演じている。最後の「生きる術」だけは、ジェーニャが主役

で慈善を施したふたりの女友達の慈愛によって絶望の淵から蘇る術を悟らせられる物語

である点、他の作品と異なっている。だまされた代償とでもいうべきか。
 ちょうど推理小説のように具体的な暴きの手口を明かすことは、控えなければならな

い。
 男が嘘をつくときはどのような動機と目的が潜んでいるのであろう。「オレオレ詐

欺」とはいうが、「ワタシワタシ詐欺」は耳にしない。女の嘘は本質的に物質よりも精

神に、もっといえば生の本質に深く関っていると作者は訴えたいのであろう。

暑いさなか、緑陰に椅子を出して読みふけっていると、涼味が肌を軽くなでていくと

いった感じの書である。(と)

 

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漫画・アニメふうの絵が付いた“ライトノベル”という小説論

 漫画・アニメ自体が、日本で栄えた特有の文化です。そういった表紙絵、挿絵が付い

たライトノベルは、この名称自体が和製英語ということもあり、進化した日本文学であ

るとは考えられます。名称が誕生してからまだ
20年余りのライトノベルは、サブカルな

のだと言われますが、まずは、それ系のレーベル(文庫、叢書、単行本)で出されてい

る小説という括りがあります。
 この国では、やまと絵系の物語絵が盛んで、散文と絵が相関したお伽草紙、黄表紙な

どのエンタテイメント系草紙がありました。メディアミックスに通じるような説話と演

劇・芸能の親密な共存も、伝統のうちにありました。
 聞いたことがないという人も、大型書店に行けば、大抵はコミック本近くにライトノ

ベル売り場を見つけられます。中高生だけではなく若い大人の読者もいて、読むマンガ

とも言われたといわれてみれば、なんとなく納得できます。
 意外なのは(というのは語弊があるかもしれませんが)、昨今、ライトノベル紹介や

研究に活況があることです。
Wikipediaライトノベルの項では、論評に10ページが費やさ

れています。作家自身によるライトノベルのハウツー本も出されていて、ライトノベル

現象は、様々に論じられています。ただ、ジャンルといえるのかどうかなど、総体的な

内容定義が確立されていないとのことです。
 実は、もう何年か前に、大正・昭和前期に活躍した某作家が挿絵にこだわったという

話題になったとき、「今のライトノベルのはしりですね!」と、言った人がありまし

た。昭和の漫画・アニメ最盛期以前の小説に、それを問うのです。ですが、あなたがそ

う思うものがライトノベルです、という考え方によれば、こちらが返答することではあ

りません。
 マスメデアが飛躍的な発展をとげるにあたり、新聞小説が隆盛したことがありまし

た。新聞に連載される近代小説に挿絵が付く形態は、今日まで存続しています。挿絵の

芸術性や、本文との相性にこだわりも生まれました。国民文学という概念もありまし

た。小説は、散文による何でもありの虚構として、作者の思想や人生や社会背景を、興

味深く伝えたり、考えさせたりします。そして、同時代の多数の読者を対象とする課題

も負って来たとは言えるでしょう。
経済と情報のバブルを経験した今日、小説はともかくもエンタメなのだという価値観

が優位になってきたようです。芸術性とエンタメに線引きはできないという説もありま

す。かつて、挿絵の時代と言われたことがありましたが、ライトノベルの時代、ですか

・・。ライトノベルが問われることで、新たな小説論が生まれてくるなら、面白いこと

に思います。  (ひ)