評伝(連載中

1.生い立ち

 

                三木露風は明治22(1889)年6月23日、現在のたつの市に生まれた。節次郎(24歳)、かた(18歳)の第1子である。操と命名される。父方の三木家はもと三木城の城主別所氏の家臣であったが、天正のころの落城に際し網干の里に住み着いて農耕に従事した。天和のころ義方の代になって竜野城主脇坂氏に召し抱えられて以降、代々家臣として仕え、5代目旅雄にいたってにわかに出世し藩の要職を命じられた。節次郎謹写に依る「系図」の跋には「微々タル一下士ヨリ身ヲ起シ破格ノ昇進トス」と記されている。その子の制はさらに昇進を重ねて、民政判事寺社奉行兼務の職で廃藩置県を迎えている。明治維新後は94国立銀行の頭取、さらには龍野の初代町長に選ばれるなど、信望の厚い人物であった。その第2子が露風の父節次郎である。父は露風が生まれたころは92銀行に勤務していた。

 なお、3代目の義利の娘紋は国木田家に嫁したが、国木田独歩はその曾孫にあたる。

 母かたは、鳥取藩家老職和田邦之助信且の娘である。『鳥取藩史』によれば、信且は「御軍式方惣督」として「尊攘に努め」「賢太夫の称」があったが、尊王・佐幕の内紛に関与したという嫌疑をかけられて心疾に罹って「年未だ而立ならず」して隠居した。かたは生まれて間もなく藩士の堀正の養女となった。維新後、龍野監獄の典獄(藩史では警部)として赴任した堀から龍野円覚寺に預けられ半年後の16歳の春、節次郎に嫁いだ。

『鳥取藩史』の描く尊王の志士堀正の行状は、実に痛快である。歴史上に有名なのは上野の彰義隊の戦争の際に寛永寺伽藍を焼却してしまったことである。森まゆみの『彰義隊異聞』では、放火の動機として警護が面倒だったからだとしているが、「藩士列伝」には「敵兵気先づ落つ」とあるところからすると、戦略的な行為であったともとれる。いずれにしても豪胆な振る舞いであることにかわりはない。最後は鳥取県出身の学生寮「久松学舎」の舎監をつとめた。

節次郎とかたの結婚生活は不幸にも長くは続かなかった。原因は節次郎の身持ちの悪さにあった。具体的には大阪まで出かけていって放蕩することが度重なったためだと安部宙之助は語っている。ついに明治28年の早春、かたは前年5月に生まれた勉を連れて鳥取市の堀家に帰ってしまった。露風が幼稚園にいる間の出来事であった。帰宅してみるとそこには母の姿がなく、祖父の家に引き取られていった。

父は、翠山と号して漢詩も作れば、書も能くした。しかし、「自ら進んでやらうとした商業上の事は悉く失敗した」と露風は語り、浅生山正夫は「頑固一徹、処世の術を知らぬ」人だったと述べているところから推測すると、そうした性格の問題も夫婦関係を維持する上での障害ともなったのではないだろうか。養父の円覚寺の住職になんどか相談した後のかたの決断だったようである。

露風と父は祖父制の家に移り住む。その後、父は斉藤シズと再婚。ふたりの間に明治3111月正夫が生まれたが、離婚。神戸市に移り住んで谷口つると新たに所帯を持った。

露風は結局祖父の庇護の下に育てられる。露風10歳頃には、二人の年長の従兄弟、母が東大の付属看護学校で学ぶために預けられた弟の勉、それと正夫の5人の男の子たちが一つ屋根の下で暮らしていたことになる。「一人淋しゅう朝餉をすまして、奥の父母に畏って朝のあいさつをする。僕は早々怖い処を退いて居間に行く」(明治35年作「日曜の半日」)というように、おじおばを父母、従兄弟を兄さんと呼んでの日常生活であった。夜は親代わりの祖父と祖母の間に寝ていた。

露風の回想記によれば、この祖父という人は平生は無口で、沈思黙考しているような人であった。孫たちには分け隔てなく慈悲慈愛をもって接し、儒教的な仁誠の精神を醸成するように心がけていたようである。「7歳の頃より祖父は『大学』の素読をせしめ字を習はしむ。従兄らと机をならべ墨磨り紙のべて習ふに、冬の霜の朝など手の凍ゆること多し。そのとき手を取りて書かしむる祖父のたなごころの温かきに慈愛をぞ知り初めし。」と祖父の情愛を懐かしく回想している。

それでも、成長するにしたがって母と別れた哀れみの情はますます深く心に根ざすことになった。『低唱』や『夏姫』収録の次の歌

 

戸に立ちて母を恋ひつつ百五十里水のあなたを慕はしと見ぬ

母恋ふてゆふべ戸に靠る若き子が愁ひの袖よ秋は得耐えぬ

吾れや七つ母と添寝の夢や夢十とせは情知らずに過ぎぬ

 

あるいは後年、上京したてのころの次の歌

 

われ七つ因幡に去ぬのおん母を又かへり来る人と思ひし

母こひし竹の花咲く山の日はうづら追ひたるふるさとの家

そぞろなる涙の中に君見ては母ともまがふなつかしさかな

狐来てとらむと云ふにおとなしう母といねこし森かげの家

 

などとしきりに幼少時を追想する歌を作っている。そこには「長い詩を度び度び歌って呉れた」り、「絵を描いて、それを見せて、子供の私を遊ばせて呉れた」優しい母を恋い慕う心が色濃くにじみ出ている。

2.文学の目覚め

 

「物心つきてより我は書に読みふけりぬ。倉の小箪笥に父君の蔵し給ひし書物の中よりとりいでて馬琴の八犬伝など読めり。そのほか読み尽しぬ。」と幼時の読書体験を語っているが、大槻磐渓、梁川星巌、斉藤拙堂らに直接指導を受けた祖父から特に星巌の詩文の素晴らしさを推奨され、祖父の書庫から星巌詩集の写本を取り出して読んだという。後に「誠に祖父は詩眼を具えたたる仁にてありたり」と感服しているところをみると、露風の文学熱の淵源はそのあたりに見出せるかもしれない。
明治32年、高等小学校に入ったころから『少国民』『言文一致』などの愛読者になり、赴任してきた松本南楼という教師に感化され、俳句を詠む楽しみを覚えるようになる。そして、明治34年には従兄や弟と『少園』という回覧雑誌を作ったりした。これを母胎として近くの士族屋敷に住む旧龍野藩士の子弟たちを加えた俳句の結社『白紫会』が生まれ、さらにこの会は明治36年、龍野中学に進学したころには、中学の同好の士を巻き込んで、短歌中心の結社『緋桜会』へと発展していった。
「赤蜻蛉とまってゐるよ竿の先」という句を詠んだのは明治34年ころというが確証はない。現在確認できるもっとも初期の俳句は、『少国民』明治351015日号俳句欄に「播磨 三木みさを」として掲載された投稿句「荒武者の月仰きけり秋のみづ」である。
もっとも作文の方はこれより早く、明治3541日号に「朝めし前」が文林欄に選ばれている。朝目が覚めてから起きるまで、さらに洗顔のため庭に出て自分が買った梅の花を眺めていると弟の呼び声がしたところまでが描かれている。家の内外から聞こえる物音に耳を傾けている様子や早春の庭先の情景などが大変感覚的に描写され、「お日様が、金の槍をつき出しての御催促」といった擬人法も随所に使われていて、工夫に富んだ作文になっている。あるいは国語の課題作文であったろうか。『我が歩める道』で尋常小学校時代の思い出として、郡内の小学校の作文成績展覧会で優等になったり、教師の賞賛を受けたりしたことを語っているが、この作文もそうした評価にふさわしいできばえを示している。
  その後、彼の作文はほぼ毎号「文林欄」や「新文章欄」に掲載され、明治361月『少国民』が『言文一致』に改題されてからは、俳句、作文のみならず文芸時評、新体詩、短歌と投稿のジャンルを広げていく。それと同時に投稿先も『中学世界』や『文庫』といった当時の代表的な投稿誌へと向っていく。
  読書欲も旺盛で、『中学文芸』『中学文壇』『中学世界』など中学生を対象とした雑誌はもとより、『文庫』『新声』から当時の三大雑誌である『新小説』『文芸倶楽部』『文芸界』などに掲載された大人向けの本格的な小説にまで及んでいる。さらにまた『透谷全集』や荷風の『地獄の花』『夢の女』などの新刊本まで読むようになった。『透谷全集』は、行きつけの梅林書店の主人がしきりによい本だと褒めるので、断りきれずに購入したという。「今にして思ふと此の陰気な、子供心を圧迫する書物が、其後どれだけ僕の心を慰めてくれたか知れない」と大正2年に述懐しているとおり、彼の思想形成にかなりの影響を与えている。
  そのころの自分を振り返って、「思想感情及び言動等、大人の如くであった」(我が歩める道 年譜)と記しているが、次のような言説に接するならば、これが14,5歳の少年の手になるものかと、その早熟ぶりにはただただ驚嘆するばかりである。

荷風の女の出た。体裁なども、新声社もの丈にどっちかと言えば華奢な方で、巻頭のお浪の写真などは事実と対照して読者をして、一個此薄倖な女主人公に同情を寄す可く一層に深からしめた。一躰に文章が艶麗で而かも其筆に熱情の籠って居るのは、自分をして洵に面白く読ませた所以で有らう。

著者は新声の掬汀と共に熱烈なる情想を有する新進作家である。其小説的倆伎に於て両者の何れが勝つて居るかは、斯道に於ては言はば門外漢の自分の詳しうする筈がない。たが荷風の筆が他の作家とは違つて、一種独得の妙致を備へるに至つては、自分の大に渠れに嘱望して居る所なので、事に作れば、春葉魯庵の手合に此肩して決して退けを取るものではないと断言するに蹰躇しない一人で有る。此篇を読むだ自分は先きに於ける地獄の花とは、今一段の進歩をなせるの余まりに早きに驚かずに居られなかった。(表記のまま 傍点省略)

これは『言文一致』の明治3681日号に掲載された「青葉録」という題の小説時評のうちの永井荷風の『夢の女』評の一節である。表記の問題に関しては、「倆伎」「蹰躇」「退け」など今日から見ればなじみが薄いが、誤りではない。こういう語彙をどこから入手したのか考えれば、おのずと露風の広範な読書量を想定できるだろう。「女の出た」は「夢の女が出た」、「事に作ると」は「事に依ると」「此肩」はいうまでもなく「比肩」の植字ミスと見ていいだろう。

比類のない独特の筆致をもって文壇に登場した荷風の文才を高く評価し、その将来の活動に期待を寄せている様子が、まさに大人顔負けの口吻でつづられている。この文の後で具体的に登場人物批評をし「時、炎帝、暴を逞しうするの時、著者幸に文壇のたれ(め)加餐せられたい」という丁寧な結語で締めくくっている。
  荷風は『地獄の花』におけるゾライズムの観念的な作風を一転させて、『夢の女』は、従来の悲惨小説の世界に立ち戻り、苦界に呻吟する女の生き様を情愛をこめて描こうとした作品である。露風はその点を捉えて「今一段の進歩をなせる」と評価しているのである。文の構成といい内容といい堂々たる論評といっていいだろう。
  後年、露風は荷風の招きによって、早稲田から三田に転学し、『三田文学』に彼の『白き手の猟人』の代表作を発表することになるが、そうした縁はすでにこんなところにも芽生えていたのである。

ああ蒼々の山涓々の水、一つとして天与のものたらざるはない。虚栄、衒躍(耀)、浮誇、罪悪、忌むべき 等のものの一点伏在を許さない我純潔なる自然の天地に放適(擲)して、聖なる天父の黙示に心胸を洗ふ身の如何ばかり感謝の意に満ちたであらうか。

無限の黙示は汝に復活の新生命を与ふ可きで有る。幽玄なる感想は汝の胸裏に湧く可きである。

肉の快楽は遂に宜く心霊の快楽に苦(若)かざるを思へ。而して先づ我れなるものは霊なる事を忘れてはならぬ。心霊の快楽==記せよ清冽の清泉に湧く可きものは実に れで有るので、美るはしき天然は斯くして汝に心霊の慰藉を与ふるのだ。

これは「予は休暇中に何物を得た乎」という題の作文の一節である。50日の夏季休暇を故郷で過したという設定になっている。明治3691日号の『言文一致』に掲載されたものだが、この号には「晨の記」という作文も掲載されている。同じく休暇で帰省した故郷でのある朝の出来事を描いている。どちらも主題は天然自然に囲まれて満ち足りた自分を神の寵児と自覚する様を記したものだが、前者は観想文につくり、後者は描写文につくるというように、投稿欄を意識して異なった表現形式を試みている。露風はこの時期ただ漫然と作文をしていたのではなく、はっきりした目的意識を持って修練を重ねていた事実をこのことは証明している。

もう一つ見逃せないことは、自然と自分とが神と子の関係において意識されている点であろう。純潔で聖なる自然は天父の賜物であり、自分はそれと心霊を通して結合しているという意識である。こうしたスピリチュアルな自然観はいうまでもなく透谷や独歩、蘆花らのワーズワース・エマソン的なロマン主義的自然観を想起させるものであるが、後年の彼の象徴主義理論の中心命題を予告してもいて、その点でも重要文献ということができる。

 

3.中学時代

 明治361903)年4月、露風は竜野中学に進学した。定員70名に400名ほどの応募があったので、受験に際しては不安であったが、結果は一番の成績だった。「意外であったが悦ばしかった」と合格者発表の掲示に自分の名前を認めたときの気もちを回想している。こうして晴れがましく出発した中学生活ではあったが、翌年の11月には閑谷黌に転学することになる。閑谷黌を選んだ理由を本人は、①「漢学の素養を見につけさせたい」という祖父の希望②閑谷黌の教頭の神戸要次郎が「旧竜野藩士で祖父の薫陶を受けた人だったので、安心して身を托せる」という祖父の判断。③「学生中にストライキが起こった」ことなどをあげている。
 しかし、安部宙之介は、露風が文学に凝り過ぎて成績が下がり、落第の恐れがあったためだとその真相について述べている。また、水守亀之助は、上級生の蛮カラ組から睨まれていて、通学にすることに嫌気が差していた事実を紹介している。さらにまた、「西へ十里旅立つあしたうつむいて君が情けの手に歩みつつ」などの短歌から推測すれば、恋愛のようなこともうわさに上ったとも考えられる。おそらくこうした事情があって、困り果てた親が友人の神戸要次郎に受け入れを懇願したものであろう。彼に身元引受人になってもらって転校を果たし、露風は寄宿舎生活を送ることになる。しかし、「午前は五時に起床し、講堂に行って、遥拝礼を」したり、冬の寒い朝、寄宿舎の裏にある池の氷を石で割って洗顔するという生活に耐えられなくなったからであろうか、翌年1月には、村の名望家の中島という農家の小荘「不言園」に転居している。鷺城新聞に勤めていて露風と親交のあった高浜天我は、「三木君の下宿に二日位転がり込んだが、三木君は煙草を畳のすきまに突込んでおいて、それを夜更につまみ出して吸うのだった」と回顧談に記している。すでに喫煙の習慣が身についていたとすれば、これも退寮の原因の一つであったかもしれない。
  「小山の中腹にあって、松籟の音、渓流の音の外は、おとづれて来る小鳥の声ばかり」という寂しい自然の中にあって、露風は時に激しいホームシックに襲われることもあった。家森氏が明治382月ころに編まれたと推測している自筆詩歌集『低唱』には、その当時の心境が赤裸々につづられている。「学校では寒むいが我が古里は寒くないか、ましてや父の身は壮健であるか」という詞書のある短歌「古里の東へ雲は流れつつ吉備寒うして朝霰ふる」、「東京に居ます母を呼んでも何の返事もなし、哀れ母は今如何にしてけむ、思へば哀れなりけり」という詞書のある「声あげて呼べば木だまと帰り来ぬああ天地に我領なきや」など悲痛な思いを反映した歌がこの集にはちりばめられている。あまりの寂しさに竜野に戻りたいと友人に手紙を出したこともあった。
  それでも、「英語と国語とは、其の学校へ入ってからは一層らくであって」、「学課に就てそれ程、心を用ゐることも無かった」(道)露風は、「山と渓と又山中にある幾つもの池の畔に逍遥して詩想を練る」機会が多くなり、『文庫』はもちろんのこと、津山市の『曉星』、姫路市の『みかしほ』、岡山市の『白虹』など近隣の同人誌に精力的に投稿を続けた。『白虹』を主宰していた入沢凉月や、同人の有本芳水や内海泡沫らと親しく交流を持ったのもこのころである。『白虹』は、明治3711月から明治422月まで28号を刊行された岡山地方文壇の有力誌であった。尾上柴舟、片山天絃、中村星湖、相馬御風ら中央文壇で活躍する文学者の寄稿を仰ぐ一方、萩原朔太郎、人見東明、川路柳虹、正富汪洋、前田夕暮、水野葉舟、加藤介春など多くの新人の投稿で紙面を飾っている。中でも、朔太郎は初期には毎号美棹の筆名でさかんに晶子調の恋歌を投稿していたのは注目に値する。露風もまた同類の内容の短歌を寄せていて、この時期この時点で両者はほぼ同一の文学的圏内にいたと見ることができるのである。
  前年11月に『文庫』に投稿した長詩「書写山」が好評だったことや、すでに『文庫』や『新声』での活躍を通して、詩人としてやっていけるという自信が醸成されてきた露風は、明治384月中学3年に進級した頃、退学して上京することを決意するにいたる。その記念として彼は「閑谷に入りてより七ヶ月間の中、詩情を動して低い乍らも歌ひたる長詩短詩」を取りまとめて詩集を刊行することを思い立つ。題して『夏姫』。61日にしたためた内海宛の手紙によれば、すでに入沢、高浜らの協力も取り付け、岡山の奥田金正堂の快諾も得ていた。その上で内海に序文の依頼を請うたのがこの手紙の主意であるが、上京の件について「野生或は来学期より上京仕るべきやはかられず」と書き添えている。さらに712日の『夏姫』寄贈の手紙では、「九月には上京仕る可く候」とあり、「蔭乍ら御健康を祈居り申候」という離別の挨拶も添えているところを見ると、この1ヶ月の間に、上京の手はずが整ったものと思われる。「この篇成る上は今しばらく筆を収めて真面目に学事の修業に勉め申したき心算」という殊勝な覚悟からして、父親としては『夏姫』の出版費用を持つかわりに、上京を機に心機一転して学業に励むことを期待したのだろう。
  『夏姫』は主に『白虹』の関係者による20ページにわたる序詩、序文の後に短歌113首と詩10篇が収められている。これを詞友に献呈して露風は勇躍中央詩壇に身を投じる。

4 上京.

 三木露風が有本芳水を頼って上京したのは、明治38(1905)年8月29日のことである。芳水は岡山市の同人誌『白虹』の仲間であり、同じく『文庫』の投稿家として親しくしていた。前年関西中学を卒業し上京、神田の英語学校に通っていた。それに刺激され矢も盾も堪らず上京を決意したのであった。 その日は非常に暑い日であった。この炎天の下に東京が横たわっているのを目の当たりにした露風の胸は、無性にワクワクして、急に嬉しさと幽かな不安がこみ上げて来た。露風時に17歳の少年だった。新橋駅には芳水が迎えに来ることになっていたが、遅刻したために露風は一人で芳水の下宿に向った。帰ってみると露風は縁側に腰を下ろしていたという。
 多分、庭先の夏菊を眺めながら、「取りとめもないロマンチックな淡い夢」を追っていたのであろう。麹町区1番地16野中清宅の芳水の下宿まで露風はどのようにしてたどり着いたのだろう。あらかじめ新橋駅からの経路を教わっていたのだろうか。ともあれそこの六畳の芳水の部屋で露風は、東京生活の第一歩がを踏み出す。隣は湯屋になっていて、毎晩遅くなると夜じまいをする三助の眠そうな唄とカタンカタンという湯桶の響が哀れに聞こえた。 芳水とは盛んに詩や歌を作って互いに批評しあった。また、芳水を通して『文庫』の投稿仲間との交流を広めていった。つとに『文庫』投稿者の間で名の知れていた露風は、「岡山の少年詩人」としてたちまち仲間の寵児になった。
 しかし、学業を続けることを条件にして上京を果たした露風は、作詩に現を抜かしてばかりいられず、「某中学の編入試験に失敗、ひとりになって勉強しようと」心機一転、10月に富士見町1丁目33番地隈部方に転居する。それでも生活は改まらず、「最後に編入した水道橋側の商業学校を四度目に出された時、親からして厳しい勘気を受け、哀れな私は忽ち悲惨な境涯に墜落」する。
 この間のことを「志ありて上京し、前田正名の東洋商業学校に入る」と年譜に記すが、これは露風の誤認で、「某中学」が御茶ノ水にあった前田の京華中学校で、「水道橋側の商業学校」は三崎町にあった東洋商業学校で校長は秋元子爵あった。
 親からの送金を絶たれた露風は、苦難に満ちた自活の道を模索しなければならなくなった。
 しかしそうなるまでの露風は、学業そっちのけで盛んに若い文学者との交流を深めていった。上京した日には菫月一露(佐々木秀道)に連れられて芳水と三人で松原至文を訪ねる。松原と佐々木はともに三重県のお寺の出身で、松原は当時『文庫』の編集者であり、佐々木は文庫派の歌人であった。その際に露風は持参した『夏姫』を至文に贈呈する。至文はさっそく『文庫』明治38年9月15日号の「青年詩人月旦三」において氷簾の匿名で「汪洋と露風との詩集」と題して『夏ひさし』と『夏姫』を取り上げた。
 正富汪洋は、閑谷黌の先輩で岡山の出身。ちょうど露風の上京の日の朝日新聞一面広告欄で、「尾上柴舟君序歌、金子薫園君序歌、蒲原有明君序文」による清水橘村との合著『夏ひさし』の刊行を報じていた。露風にとって橘村は『夏姫』の巻頭序歌を寄せた間柄であった。 「夏姫を文庫にて松原至文氏が精評し呉れたるも全く私交上より来りたるにて決して至文君の本意には無之今に於いて夏姫を出版したるは小生が最も後悔し居る処に候」(10/11 内海宛)と、謙遜しているけれども、半月足らずで「千部一版忽ち売切再版に取りかかり候」(10/05 内海宛)というほどの好評を博した『夏ひさし』との抱き合わせの「精評」は、中央文壇での露風の文学活動のはなむけとしては、重い意味を持っていた。

5 初恋

 露風は元来女性関係について具体的に語ることはなかった。『我が歩める道』においても、恋愛体験の記述は避けられている。初恋についても例外ではなく、閑谷時代の箇所では、閑谷の自然の印象は詩歌を交えて懐かしげに語っているが、一途で激しかったと推測される恋の実態も、当然「少年時代を思ひいでるよすが」ともなるはずのその体験を反映した多くの詩歌についてもすべて省かれている。
 そこで、閑谷時代のおびただしい恋愛詩や恋歌の創作の動機ともなり原動力ともなった恋の実態を明らかにするためには、どうしても正富汪洋の助けを借りなければならない。当時彼と地元で親交のあった泡沫や芳水や凉月といった文学仲間による回顧談があってもよさそうだが、現在のところ目にすることができない。汪洋は前にも述べたように、同窓の先輩歌人として、露風上京当時親密な間柄であった。その汪洋の手元に露風から取り上げた露風宛の書簡が残されていた。その所在について汪洋は『水甕』昭和401月号で触れ、さらに『螻蟻』同年12月の「三木露風追悼号」でその書簡を一部紹介した。
 家森長治郎氏の研究によれば、残された手紙は、差出人が岡山市内山下68番地 三浦長治方 太田茂代子となっている封筒つきの一通を含め、都合3通である。一番古いのが「和紙二枚に鉛筆の細字でぎっしりと書き込まれている」384月頃の手紙。次が「巻紙に毛筆書き」の38923日の消印がある封筒つきの手紙。3通目は同じく「巻紙に毛筆書き」で同年11月頃の手紙。いずれも家森氏によって公表された手紙は、一部分である。
 彼女は、戸籍名太田小茂与という明治18年生まれの4歳年上の女性であった。彼女の家は露風の下宿から約400メートル南の街道沿いにあって、農業のかたわら酒類などを販売していた。4人姉妹の末っ子で、父が亡くなってからは母との二人暮らしであった。「某高女」を中退して店番をする彼女は、ある意味で閑谷黌の生徒たちのマドンナ的存在であったようだ。専売品の販売ということから想像するに、タバコも販売していて、露風は足しげく通ったことだろう。小茂与はやがて母とともに、岡山市内の長女の嫁ぎ先の三浦家に寄寓し、岡山医専付属病院に看護婦見習いとして勤務する。その間、露風との仲は急速に深くなり、露風との結婚を夢見るほどになったようで、手紙には「決してお礼なんか入り(ママ)ませぬよ妻が夫にするのはあたりまいですよ」とか、「早く暖かなホームを造りたいのよ」といった甘い文句がつづられている。露風のほうも上京に際して彼女を同伴させたい意向を持っており、彼女も自ら働いて露風を支援したいと望んでいたことが文面から読み取れる。
 しかし、露風の父親は二人の交際を認めなかったために、露風は彼女を連れて上京するという望みは絶たれた。それでもなお第3の手紙にあるように、「父君のみ心のとくる時せつも参りましょうから」それまでは我慢をしようとはかない望みを抱くが実現することはなかった。露風との結婚をあきらめた小茂与は、その年の年末か翌年の初め頃に岡山市内の男に嫁し、411月に長男を産んでいる。
  それではこうした恋愛体験を露風はどのように作品の中でうたったのだろうか。初期詩文集『低唱』や『夏姫』、さらには『文庫』などの投稿歌の中には多くの恋歌が見られるが、それらのうちどれが直接小茂与との恋愛を謳ったものか判定するのは難しい。しかし、『夏姫』の中の次のような歌は、だいたい明治38年の初夏に作られたもので、小茂与の手紙の「何に付けても思ひ出しますね今年の春の楽しさをほんとに短い短い夢の間で御座いましたよ四月卅日から五月廿三日までうれしかったはたった一月たらずで御座いましたわね」という時期のふたりの恋に関係するものとみて差し支えないだろう。
 次の歌は「柳にけぶる細雨の/長岡あたり宵浅く/」と歌いだす9連の詩「宵の灯」と情景が酷似している。38年10月『新声』二発表されたもので、初旅の二人が京屋という旅館に宿った時のういういしさを主題にした詩である。

  長岡は青葉の鐘に別れむの二人が泣きし夕雨の里(「夢野」)

また、「吉備路」の章の

  雨の灯の幾つまたたく川向う風にむかひて欄に靠る人(旭川)
  病む君に肩まいらせむ逍遥や花の白きは問はでやみにし
  君待つと只あくがれて立ち出でし栗の花散る宵月夜かな

小茂与は病弱の身であったことは、「病がちなる今日此頃」という手紙の言葉からも推察される。そんな彼女をいたわる歌も他に見られる。

「なさけ」の章の

  泣きながら縋りし人ははかなうて歌のひとつを残して去りぬ
  なになれば魂のひとつよ返り来ぬ恋ふべきふたり今よはぐれて
  御名のみは其御名のみは人知れず襟にしるして別れて行かむ
  しかすがに弱き小胸はとどろきぬ和きかひなようつぶきて抱け

「泣きながら」以下三首は、386月『銀箭』に「紅扇」の題で発表したものである。これらの歌の背景は、同じく『夏姫』所収の詩「春の夜」の

  若き子のふたりは今ぞ
  辿り入る彩ある巷に
  花しどろ紅に紫
  花踏みて酔へるが如く

  寄り添えばばああ自ら
  双の腕頸を捲きて
  渇きては熱き唇
  接吻の甘まきに堪えむ
             (2,3連)
という情景と通いあう内容である。

しかし、次のような作品に接すると、恋におぼれる自分を罪悪視する意識も心の底に強く働いていたことがわかる。

  我と我が罪に心は戦きて聖堂の闇にいのり捧ぐる(388月 
  まろびつつ泣きつつ辿る運命の世黒魔の蝶に追はれてぞ行く

『白虹』38年8月号掲載の歌である。『白百合』38年8月号に寄稿した次の歌と考え合わせると、、上京して間もない露風の思いつめたような恋への思いがにじみ出ている。小茂代の切実な手紙は露風を悩ましたのかもしれない

  ふたりして死なむもよしや島かげにくろき陰ひき月落ちかかる
  さそはれて来しや迷ひ路まどひては悔いの影見ずただ闇さぐる

父の叱責をこうむって動揺する心のうちを詠んだ次の歌は、時期的に第3の手紙の内容に対応している。

  われまどふ父のおほせと情ある君が涙と二つを思ひ(3812月 『文庫』)

次の歌を見ると、露風はすでに恋を過去のものとしていることがわかる。
 
  別れては花とみだるる恋ごころ二丈にあまる文もありける
  吾れ君を恋へりと只に心なく云はむとしたる日をこそ思へ
  かかるとき君を忘れぬ大熱の三日を病みて「吾れ」「人」知らず

39
3、4月の頃の歌である。 「それからあとは半年にも近き日を只一日も泣かずに暮らしたことはありません」という言葉を残し小茂代は泣く泣く露風の元を去っていった。露風にしてみれば、どうすることもできない運命としてあきらめるより他はなかったろう。恋人が結婚したことを知らされた時、露風は次のようなはなむけの詩を作り、多情な少年期の恋に終止符を打った。
  
  君は人妻、闇の戸に
  背面に臥して泣くといふ  
  み文寄させな人の世は─
  必ず君に咎めせむ
  
  せめては許せ追憶の
  涙ながれて堰きあへず
  櫟林は靄こめて
  月は愁ひに曇りたり(「櫟林に立ちて」10,11連 392月 『文庫』)

これらの詩歌を最後にして露風は、恋の歌を歌わなくなるのである。


6. 試練

 露風は明治391月、千駄木林町の大阪屋という下宿に移転した。車前草社の同人たちとの交流の深まりが移住を促したのかもしれない。

 車前草社は、『新声』歌壇の選者をしていた尾上柴舟が、38年初夏在京の投稿者を集めて結成した短歌会であった。当初は若山牧水、正富汪洋、前田夕暮が会員であったが、9月に夕暮の勧誘を受けて有本芳水と露風が加盟した。ともに『文庫』『新声』の熱心な投稿者で、芳水の下宿に夕暮も汪洋もよく遊びに来ていた。その夕暮も38年には本郷に下宿を移し、汪洋は白山御殿町に住んでいた。師の柴舟の小石川原町の家の近くということになるが、露風の転居は、そうした同人間の親密な関係の深まりを感じさせる。

 この頃、短歌界は自然主義思潮の急激な隆盛を受けて、明星派がようやく勢力を失い、新たに尾上柴舟、金子薫園らが提唱する叙景詩運動が主流になりつつあった。「上京前の所謂多感にして浪漫的な少年期から青年期に展開されつつあった」「叙事詩の哀傷」が優位を占めるようになったと夕暮が述べているように、この時代思潮の変遷は彼ら若者たちの精神的成長と重なっていた。牧水にしても露風にしても事情は同様で、みな少年期のバイブルであった『みだれ髪』を放擲して、叙景詩運動の主宰者の門を敲いた。薫園の「白菊会」と柴舟の「車前草社」はともに「明星派の作風に対抗して、力を自然風景の描写に傾け、そこに清新なる、情感を盛ることに力を尽くし」(「車前草社の人々」 金澤種美)たが、両者の短歌理念は、会の名が象徴しているように、異質な面を持った。その相違について夕暮は、白菊会は「穏健にして且つある風韻を内包せし」めようとするのに対して、車前草社は「野草の鮮緑と溌剌さとをもって、各自の個性のままに成長しようといふ意図を内蔵していた」(「車前草社とその頃の思い出」)と記している。

 車前草社の詠草は、389月号から408月号まで、23回に及んだ。そのうち露風が発表したのは、391月号から6月号までである。上京してからの露風の発表作品を見ると、短歌は主に『文庫』であり、『新声』にはもっぱら詩を寄せていた。『文庫』の歌壇の選者は柴舟であり、38年末には筆頭に推されているところを見ると、露風自身投稿時代を卒業したという思いが強く意識されたのであろう。同時に柴舟が露風の成長を感じ取って同人に加えようと判断したともいえる。同人に迎えられたことで露風は短歌界においても一人前の歌人として認められたといえるだろう。同人に名を連ねてからは、もはや『文庫』に短歌を投稿することはなくなり、『新声』のほかは『鷺城新聞』や『読売新聞』に多く発表するようになった。特に『鷺城新聞』には、39/1の「朝の戸」6首から39/4の「香炉」1首まで70首にあまる短歌を寄せたり、柴舟、薫園、高須梅渓などの文士の家庭生活を報告したりしている。更にまた「現時の短歌界」で明星派の近況や窪田うつぼの『まひる野』の論評などをみても歌人としての気概と自覚が裏打ちされているように思われる。

 それでは露風自身はどのような歌を作っていたのだろうか。「車前草社詩稿」40首ほどの中から数首引用してみる。

 

  こもり沼や太古の精が永劫にぬる守歌とふゆのあめ降る

  たそがれは湖の底より来るらし十歩をへだつ君とわれとに

  悲しき日雪国なれば日おくれてぬれてとどきし母の文かな

  夜の月はしろく凍りてねぶりたる大都のうへに雪おちそめぬ

  寂寥ははなるるまなくしたしみて胸にすまひぬ影かのやうに

  くら闇に落ちたる夢のおもひ出をさぐるに似たるこの悲みや

  冷やかのさまよそほひて対ひゐぬ初めて恋へる火とかのやうに

皐月雲霽るるひととき雑草のあをき刈る子の鎌こそ光れ

 

 夕暮は「冷やかに」の歌を評して「露風にも相聞歌が相当に多く、牧水の情緒的、汪洋の体臭的なのに比して、露風のは心理的であったといへよう」と述べているが、叙景歌についてもここにみられるように心理的傾向が強い作風を示していた。「この作風を押し進めて行ったならば、新しき短歌運動に寄与するところあった」が、「車前草社から喰み出して仕舞」ったと惜しんでいる。
 その要因として夕暮は露風の自我の強さを上げていて、一番自信家の露風は、発表順位とか採択歌数とかにすぐ不平不満を言い出し「今度こそ出さないよといひいひ」ついに退会してしまったという。最年少の露風の甘えもあったろうが、生来の人一倍強い自尊心のあらわれでもあったろう。
 一方で彼の身辺は容易ならぬ事態に直面していた。学校からの除籍を知らされた父親からは送金も立たれたのだろう。『魯城新聞』の掲載も生活費を稼ぐためと思われるし、林町への移転も下宿代未払いのために追い出された可能性もある。そこにもいられずに彼はそうそうに近くの三島霜川の家に居候している。霜川は日暮里花見寺で行われた『新声』の誌友会で親しくなった作家であった。そうした現実の生活の厳しさが「寂寥や」「くら闇」の歌に反映し、明るい浪漫的な明星調はすっかり影を潜め、にび色の苦渋に満ちた世界が描かれるようになっている。
 「悲しき日」に歌われた母は、離別後早稲田大学に入学するため上京した碧川企救男に付き添われて東大病院付属看護養成所に入学した。露風の次男勉を旧鳥取藩の学舎である久松(きゅうしょう)学舎の舎監をしていた養父堀正に預けての勉学であったが、それも大変で結局勉は竜野の三木家に帰し、卒業後は東大病院に勤務した。そのは母は小樽新聞記者になっていた碧川と結婚して北海道に暮らしていた。露風の東京での暮しを心配した母からの手紙であったろうか。「詩稿」の中には他に母の手紙に触発されたような、「母こひし竹の花咲く山の日はうづら追いたるふるさとの家」「狐来てとらむと言ふにおとなしう母といねこし森かげの家」など、母と過した故郷の家を懐かしく偲んでいる歌が収録されている。「忘れていたが、君、母が上京したよ」と夕暮宛の手紙で書き添えたのは、413月のことだった。
 その後年末までの露風の動向については森田氏が要領よくまとめている。それに小木曽の「三木露風追憶」「続三木露風追憶」「忘れ難い交友」「露風の美濃新聞時代」などから補足しながらまとめてみると、露風は5月頃に帰省、その間に学校のことがばれて父からどこかの池で家鴨でも飼って生計を立てよとしかられる。神戸の商業学校に通えともいわれたらしい。7月になって露風は紺絣の単衣に兵児帯という書生らしい風采で、岐阜の『山鳩』の発行者である小木曽旭晃を訪ねて身の振り方を懇願した。『山鳩』は美濃の地方誌であったが、中央にも名の知れた文芸誌で、柴舟や薫園の門下の歌人たちも寄稿し、東に岐阜の山鳩西に岡山の白虹ありといわれろほどの有力詩であった。露風はまだ投稿していなかったが、播磨の詩人露風の名は小木曽もうわさに聞いていた。小木曽は一泊させてひとまず神戸に帰らせ、やがて大垣の美濃新聞に欠員を見つけ、知らせてやる。月給は当分露風の希望通り12円支給されるということで話がまとまり、「一旦、上岐、入社の上は充分社長の満足を買ひ得べ気手腕を振い申すべく其点はすべてご安堵下されたし」と謝礼の手紙を送った露風は一旦7月下旬に上京、汪洋らに別離の挨拶を済ませて727日西下する。そして81日から出勤したようだ。
 「しかし、結果はおもしろくなかった。第一県内の事情がわからない、新聞記事は未経験である。2,3ヶ月やってみたが旧態依然たりでイヤ気がさしてきた。一方社長も期待はずれで困ったと云うて来た。仕方ないので僕が出張して退社の話をつけ、露風を岐阜へ連れてきて、駅前の信濃屋旅館へ一時下宿させ、その間露風は東京方面の知人数名へ手紙を出して就職を依頼し、吉報を待っていたところ、幸いにも三島霜川が一時世話をするということで上京に一決した。」「かりそめの縁ではあるが、僕は露風を弟のような気持で世話し、彼も僕を兄のように信頼してくれたので、互いに落涙しての惜別であった。」と小木曽は回想する。かくて923日にはふたたび霜川の下宿に転がり込んだ。
 「私は中学4年で、早稲田大学に文学を修める志望を抱き受験の為めに上京した」「かくて私は予科の試験を受けて登第し、早稲田の学生になった」と『道』では記しているが事実はそんなに簡単ではなかったのだ。
 上京した露風は、改めて学校に入るか雑誌社に入るつもりであったが、結局その後の露風の進路は、雑誌社の編集へと向うこととなる。食客となった当の主人の霜川は、近くの徳田秋声の書生部屋に寄寓し小説を書いて留守であった。その頃の露風を訪問した水守亀之助は、露風の暮らしぶりについて「露風は学校へ行ってはゐさうにないのもか、可なり窮迫してゐるらしく」「借り物らしい身にあはぬ薄汚れた袷を着たきりの見窄らし」い身なりをしていたと述べている。しかし、「彼は昔のやうに才気煥発であり、意気軒昂たるもので、旺んに詩壇や文壇を語」っていたという。
 
上京以来年末まで中央誌に発表した作品は、『新声』12月号の「桑摘む家」21首のみである。  

  夜ぞ恋し涙の中にふるさとの桑摘む家の眼に浮かび来て

  おもかげは夢にも立たむ冬薔薇のかがよふもとに涙する夜は

  夜の空はなつかし恋し遠方ははは住む国の薄あかり雲

  ふと人を思はずなりて淋しさに心老ゆなり歳はも暮れむ

ここに収められた歌は、別離した母を思慕し、嫁ぎ去った恋人の面影を追い、幼少年期のふるさとの家を追慕しながら、万感胸に迫りうたた反転して安眠を妨げられ、天涯孤独の悲愁に嗚咽する内容に満ちている。上京して一年数ヶ月の露風を襲った厳しい試練であった。やがて霜川が動坂の下宿に移ったので、露風は12月雑司が谷の目白館に転居した。
 

7  帰郷

  露風は明治40年の夏を神戸で過した。神戸には39年の暮に谷口つると結婚したばかりの父節次郎が住んでいた。もっとも明治35年の露風の作品にはたびたび神戸を訪れたことが描かれているので、節次郎が神戸市楠町7丁目60-22に移り住むようになったのはかなり前にさかのぼると考えられる。

森田実歳によれば、露風は4月20日、早稲田大学に試験合格し、5月7日高等予科文科に入学しているという。当時の入学資格は中学卒業者なら無試験で入学を許可されたが、中途退学の露風は、当然試験を受けなければならないはずであったが、これにも認定試験というのがあったそうであるから、多分早稲田詩社の同人であることが考慮されたものであろう。その際島村抱月の口ぞえがあったとしても不思議ではない。

こうして幸にも念願を果たした彼であったが、間もなく、欠席届と診断書を提出して、郷里に帰り、病気療養する身になった。そこでの生活ぶりについて、「当地には語るべき友人もなければ此頃の状態頗る単調にて、只夕暮頃より独り深夜まで須磨塩屋あたりまで時に涛声を聞きにゆく事のみが唯一のなぐさめとも相成居候」と内海宛に無聊をかこつ手紙を送っている。また『文庫』の7月15日号に掲載された書簡には、「僕の心は暗い、毎日些細なことに涙が溢ぼれて仕方がない」とか、「僕はもう今は立つ勇気がないまでに心を屈してゐる」などと寂寥感にとらわれ意気消沈した様子が綴られている。そのために「詩は一つも作らない、いや作れないのだ」という状態に心を悩ませていた。そうした精神状況は、当然須磨の海岸や林間の散策を詠った作品にも反映されていて、「げに堪えがたき、『寂寥(さびしみ)』ぞとか、「りから深き『悲哀(かなしび)』に/涙ながれぬ」という情緒的な詩句が詩のテーマを担っている。

またこの時期、集中的に恋の思い出をテーマにした作品を制作してもいる。しかし、それらももっぱら「別れ」を主題にしていて、歌の基調は悲哀に満ちているものばかりである。これらの詩篇は露風自身愛着を持っていたようで、『廃園』の末尾の「廿歳までの抒情詩」の章に収録している。いわば『芸苑』に発表された南国の自然を背景に歌われた青春の抒情歌の系列に属するもので、「南方の五月」「椋の花」「磯波」「その夜」「ふるさとの」「晴間」「愛のふるさと」など、ある意味泣菫や有明などの模倣から抜け出た清新で純情的な詩境を切り開いた佳作となっている。他にも「哀しき愛」「木立の外」「めざめて」「火」「一夜」「えにし」「心の泉」「灰」など『廃園』に採録されなかった恋愛詩も数多く作られている。

これら「ふるさとの」を頂点とする一連の恋愛詩のモデルについて、家森長治郎は細かな考証を踏まえたうえで、実在の太田茂代子であると断定している。森田もまた「他の女性との者でないかを疑う余地がある」し、「現実とは関らない想像によって詠われたかも知れないことを顧みる必要がある」としながらも、「当時情熱的であった露風の恋愛の核心が、彼女(M子、茂代子―注)との、のみであったとすれば、右に引いた10に近い詩の多くが、また彼女に関るものでなくてはならない。」と家森の説を支持している。そしてさらに、滞在中に彼女と逢って後、「愛のふるさと」「磯波」などの詩が作られたのではないかという推測を付け加えている。

ただ、身分的には曲がりなりにも早稲田の学生ということであったので、郷里での3ヶ月に及ぶ生活は、二年間の東京での困憊した精神と肉体をリフレッシュするのに有効であったのも事実である。久しぶりの安逸な境遇があるいは先に述べたような追想や回想の機会を用意したといえるかもしれないのである。「ふるさとの」などの基底を流れる甘美な詩調は、そうした心の余裕から生まれたものともいえるのである。

 

8 自然主義の影響

 

 9月からの2学期が迫ったため、「須磨にて病を養ひたりしが未だ全く癒え」(内海宛書簡16)なかったが、露風は9月はじめになってようやく上京し、駒込動坂町の霜川の家に身を寄せた。その後、11月3日の内海宛の書簡によれば、

「宿を転ずる事四度」の後、雑司ヶ谷87番地の目白館に転住している。

この間の消息については、よくわからない。ただ学歴に関しては、森田の調査によって、9月28日に大学を退学し、翌年3月23日再入学したことになっている。しかし、1127日と思われる内海宛の手紙には、「学校へも出でず終日閉ぢこもりていろいろ昔の追想などに耽り申候」とか「冬休みは或は帰国致すやもはかられず」とかあり、4131日の手紙では「学校も生活不如意の為休み勝ちなりしも4月よりは新学期に入ることなれば今如何かして学資を得る工夫をして勉強仕度」という文言があるので、この矛盾をどうすべきか判断に困る。考えられることは、学校側が学内掲示ですませ、本人には通知していなかったかも知れず、露風は勝手にまだ在籍しているつもりになっていたという事情である。承知していれば当然、内海に対する体面からうそをついていたということになる。3月7日には書面で内海に新学期の学費とし月額15円を1年間借用することを懇願し、さらに13日には緊急の学費として20円の借用を求めている。これまでも実家から愛想をつかされて学費を当てにできない露風に、求めに応じて金銭的援助を厭わなかった内海であるから、今回も露風の窮状に同情して貸与したものと思われ、納入期限の23日に再入学を許可されている。

 ついでにその後の学歴について述べておくと、411010日には専門部政治経済科に転科している。転科の動機は「文科を専門にやるより更に一歩此方面に向いて行った方が将来のため非常に幸福だと考え」(61)たからであった。日々の生活に疲れ果てた露風は、「文学は私の生命で生涯芸術をやりますけれ共、是と生活の方は別にしたい」という妥協案に従わざるを得ないと自覚したのであった。しかし、これとても「今までの態度を改めて本年からは学校のほうも懸命に勉強するし四方に精力を尽くして超然として自己の向上をはかります」(70)という新年の決意にも拘らず、修養と詩作と生活を実行することは難しく、ついには42226日無断欠席、学費未納のため除名扱いされてしまった。

 露風と早稲田詩社との関係についてみると、ちょうど彼と早稲田大学との関係に重なっていることがわかる。早稲田詩社の解散の時期は明確ではないが、人見、加藤が福田夕咲、三富朽葉、今井白楊らに働きかけて自由詩社を結成し機関誌『自然と印象』を刊行した425月ころと考えられる。露風は『早稲田文学』5月号に「日に照らされたる海」「幸」など5篇の自由詩を発表しているが、これが最後となった。そして6月はじめしばらくの放浪生活の後、友人の加藤精一の紹介で目白の根津別邸内に居を定めた。この転居もまた意識的に早稲田の仲間と距離を置くことを意図するものであった。

 このほぼ1年間の千駄ヶ谷時代、露風は徹底的な自然主義詩人であった。彼の周囲には人見、相馬をはじめ原田譲二や松原至文らの宿もあり、日夜交流を深め、さながら雑司ヶ谷文学倶楽部の観を呈した。彼らはそこで共通のエートスを醸成していた。それは「在来の真の規範や、美の規範に囚われることなく」「日常使用している生きた言葉の中にも美があり、詩がある筈だ。それらを発見して詩語や詩境を豊かにしたい」(人見東明の回想記)という熱烈な思いであった。特に生活苦に絶えず悩まされていた露風は、「矛盾、衝突、惑乱、疲憊、その他の深酷なる人間胸奥の声」が「到る処に悲哀の叫びをあげている」現実社会を熟視せざるを得ない境遇にあった。そうした露風にとって、「胸奥無限の悩みを促す幾多の事象を、さながらに誠実に表現することが」自然主義作家の中心生命だとする片山天弦の「無解決の文学」(『早稲田文学』10月号)の主張や、長谷川天渓の「論理的遊戯」を排して「破想顕実の態度」をもって「現実世界に触れなければならない」とする提言(『太陽』10月号)は、痛切に共鳴するところがあった。詩界の潮流としては、知識や技巧に支配されている有明や「技巧すなわち知的工風」が多大で「熱調のムーブメントが緩徐である」泣菫を批判し、そうした「金粉的詩風を」去り、人間の自然的な情感を直截に発露させるような詩風につくことを期待するという抱月の呼びかけに応じるものでもあった。

 「上京したらいくら苦しんでも宜い。詩社のためにシッカリ尽くすつもりだ」と神戸から人見に送った書簡に記した露風は、「近時の短歌界」「再び近時の短歌界に就て」「短歌の自覚的新傾向」を発表し、明星派の作風を念頭において「旧型をのみ踏襲して覚醒せざる」「遊戯的文学」を厳しく攻撃した。同時に「毒瘡」、「幻想」など理論を実作に反映した作品を発表し始めた。たとえば「毒瘡」では、

 

つと身じろげば熱臭き

襟の天鳶絨頬に触れぬ。

ふとこそ思へ、それもはた

襟の天鳶絨ありし夜に。

 

と、病床での「襟の天鳶絨」が、「艶だつ室に、(なよ)(かた)かかる「愛欲」の夜を幻想させる様を詠っている。この詩については、「近代の苦悶が多少現はれてゐるとしても、そは誇張され、修飾されたる苦悶である」し、「誰かの模倣の跡が歴々と浮かんで来る」という手厳しい批評が『新声』に掲載された。確かに「艶だつ室に、(なよ)(かた)」という詩語や、リズム構成など有明の詩に現れており、また愛欲の快楽から来る悔いと嘆きといったテーマも有明詩になじみのものであった。それでもなお露風に言わせれば、ここで詠われた情況や主題は、彼自身の当時の現実生活に密接した実感そのものであった。

 明治41年、露風は年初から体調を崩し、発熱や頭痛、さらには歯痛に悩まされ、外出もできず、厚着をして部屋に閉じこもる状態が続いていた。病状はあらたまず、5月ついには盲腸炎を誘発し、牛込の同仁病院に入院することになった。「蒼蝿ぞ歌ふ」「青色の壜」「暮色」「路傍の想」「鉛の華」「溝の蝿」など自然主義的な傾向の濃厚な詩はこの時期に集中している。こうした傾向に変化の兆しが見え始める時期は、9月ころのことである。

9、『廃園』の刊行

 ほぼ3月いっぱい沼津の千本松原の旅館沼津館に滞在した。「憂鬱、失意、憤恨、破裂──転々として周囲の事情に悩まされ」「毎日自己の体を如何にすべきかを考え苦しみ最後に悲壮な自殺を夢みピストルが恋しくなる」(74)様な都会の生活からの逃避のためであった。例によって深刻かつ危機的な精神状態を最大級に語っているが、具体的な実情は明確ではない。「僕は厭世的な血がある」とか「悲劇ばかりを生むために生まれて来た」という自己分析は繰り返し内海宛の手紙につづられているところであるが、欲望と失望、優越感と劣等感の矛盾する性格は、春先になると決まって彼を精神的に不安定な状態に陥れた。彼の精神の根底には常に自己を蔑み憎む自我が潜在していた。それが内部の情熱の高揚が鎮まり、衰えを見せた時、意識の表面に姿を現すのが己の悲劇性の自覚であった。

 「過去と『いま』」(新潮 4月号)はそうした状況下での退廃と悔恨と悲哀を詠ったものである。

痛ましき我はらから、
 驕慢と情念との我はらから、
 賎しきもの醜きもの。
 すべて、日の下には病みたるもの。穢れしもの。
 汝(なれ)にささぐ、
 地と肉とを。

 ああ、神も知らぬ身にありては
 げに汝等こそ、
 楽しきわが、安息の棲家ならむ。

「快い勇気が躯にあふれる」(75)ようになった露風は、3月末に上京、6月上旬加藤精一の勧めで雑司ヶ谷の根津別邸に転居した。ここは現在、池袋駅の東南、南池袋公園になっているが、当時は実業家の根津嘉一郎が所有している山林であった。安部宙之介の記すところによれば、「垣も塀もない広大な屋敷で、古い門が一箇所あるだけで、屋敷の中には荒れた家が五、六軒あった」という。露風の回想によれば、これらの家は六合舎という雅致のある別邸を取り囲むようにして建っていたという。林の中には昔の庭園の面影を残している古びた池があった。露風は忘れられたようにひっそりと日の光を映しているこの池を非常に愛した。

 転居して間もなく、この森の印象を「森は美しいですよ。青葉の光落日の色、軽い風のあゆみ、たそがれには晩鐘がひびいて何となくミレの絵を思ひ起させます」と語っている。彼は「すっかり田舎の若者のやうな、のんきな楽しい気持」になり、また、「明るくしんと」引き締まった気持にもなって、久々に彼の創作意欲を掻き立てた。

 服部嘉香が『早稲田文学』の詩評で「七月の詩壇で作の多いのは三木露風氏であった」と述べているように、『新潮』7月号には「廃れし園」の総題で6篇を掲げ、『文章世界』には「夏の日のたそがれ」ほか4篇を載せる一方、『新潮』に「最近の詩壇」、『秀才文壇』に「詩壇雑感」などの詩壇時評を寄せた。「廃れし園」の6篇は「霧の夜の曲」「静かなる六月の夜」「森にきたりて」「黄昏の単調」「去り行く五月の詩」「蛾」であるが、『文章世界』の4篇と合わせて廃園詩風の完成期を代表する作品となっていて、数の多さのみならず質的な高まりをも示している。その意味で六合舎時代は初期の露風の詩作活動の上から見て最も重要な時期であった。

 そのことは、評家の等しく認めるところでもあって、どのアンソロジーをひもといてみても「静かなる六月の夜」と「去り行く五月の詩」が収録されていることを見ても、この時期の露風の詩的精神がいかに充実し、高揚していたかをうかがうことができるだろう。

 露風のよき理解者であった服部嘉香は、前記時評において 

  同氏が昨年の暮に主唱された新言文一致といふ事が、此頃よほど自在になって来たのは気持がいい。若々しい感情を自然の何の現象に対しても無邪(気)に躍らしながら、其の動揺を偽らず無雑作に歌ってゐるやうで、而かも細かく見ると一々の文字に少からぬ用意が見える。同氏の特色ある詩体が、一般に理解されてゐる意味に於ての言文一致であるとは云われないが、西詩の訳に見るやうな、自在の叙法は確かに露風の主観を離れないものとなった。 

と、訳詩の影響を認めながらも、それを消化して自在な叙法を会得し、独自の詩境を確立している点を高く評価している。露風自身も時評の中で自分の詩のあり方に触れて「自分は経験を尊ぶ。美しく花やかな経験、苦痛に青ざめた経験、またたくまに過ぎてゆく刹那の経験、これらは自分の詩の内容であり且つ全部である」と述べ、白秋に対し「修辞詩から出立して漸次真実なる自己内観に立ち戻る」よう提言している。自己内観による経験の表出が詩であるという確信に基づいての発言であった。

 3月に刊行された『邪宗門』は、露風を刺激した。一連の詩作品によって詩作に手ごたえを感じた露風は、7月に入っていよいよ詩集を出すことを決意し編集作業に入った。そして、『廃園』と名づけられた詩集が光華書房から世に出たのは、9月はじめのことであった。表紙はドイツ製の暗紅色のクロスを用い、不足分は日本製のブルーのクロスを書肆が用いたという。カットは正宗徳三郎で、定
90銭であった。

 実質的な処女詩集となる『廃園』の刊行までに、露風は2回ほど詩集を出す予定であった。最初は412月である。「小生の詩集『路傍』は新潮社より近く出づべかりし」(30)と内海に書き送っている。ところが『御風集』と鉢合わせになったため、遠慮して秋まで待つことにした。5月中旬、詩集名は『路傍』『真昼』『薔薇詩集』など考えた末に『露風集』に落ち着いたこと、また体裁は四六判300ページで表紙にラフペーパーを使った極めて清洒なものにすること、献辞は上田敏にすることなど、かなり具体的な話を内海に伝えている。しかし、この企画は9月になって「新たなる詩風の下来春を待って独創的な詩集を公にする考え」(59)から自ら断念した。

 「新たなる詩風」とは、いうまでもなく詩壇を席巻し始めている口語詩を意味する。露風も従来から泥んできた文語定型詩による純情詩からの転換を迫られていた。しかし、「煩悶転々して未だ尚自由なる好詩形を発見し得ず嗟嘆堪えざるものあり」(59)という状態であった。にわかに詩壇を席巻した口語自由詩運動の影響下、抒情詩人からの脱皮が重く露風にものしかかってきたのである。その活路が嘉香のいう新言文一致であり、自己内観の道であった。この時点で露風は自然の奥深くに潜んでいる生命を窺知する努力を自らに課すようになる。いわば自己内観と自然の窺知を重ね合わせ、自然の現象を通して自己の心象を表出するという手法を探り当てたのであった。これが露風の独特の内容律となって詩を形成していく。内海に書き送った「いよいよ詩集を出すことにしました」(80)という時の「いよいよ」には半年間の苦難をのりこえて、独自の詩法を獲得した者の晴れやかで自信に満ちた境地が読み取れるのである。

 献辞が上田敏から祖父へと変更しのも、詩人として初志を果たしたという矜持の現れであり、贖罪の行為であった。

 また、正宗得三郎は、岡山の出身で『早稲田文学』の美術欄をたんとうしたことなどから露風と親しくなり、沼津館にはしばらくの間同宿した間柄であった。その時の体験をもとに正宗をモデルにした「千本浜の宿」という短篇小説を露風は書いている。

 『廃園』という書名は「私が当時住んでゐたところが廃園であったため、また集中の『去りゆく五月の詩』に見る如く、花の香の饐うる晩春の悩ましい気分もあってのことである」(象徴しより口語詩時代)という露風自身の解説のとおりであるが、よく詩集の雰囲気を反映している。「去りゆく五月の詩」は集中の代表作とも言うべき佳作であり、多くの評者もさまざまな鑑賞を試みている。 

 われは見る。
 廃園の奥、
 折ふしの音なき花の散りかひ。
 風のあゆみ、
 静かなる午後の光に、
 去りゆく優しき五月のうしろかげを。 

空の色やはらかに青みわたり
 夢深き樹には啼く、空しき鳥。 

ああいま、園のうち
 「追憶」は頭を垂れ、
 かくてまたひそやかに涙すれども
 かの「時」こそは 哀しきにほひのあとを過ぎて
 甘きこころをゆすりゆすり
 はやもわが楽しき住家の
 屋を出でゆく。 

8連のうちの最初の3連を引用したが、この部分を読んだだけでも、過ぎ去ってゆく晩春の自然への限りないいとおしみを、閉ざされた廃園の中の風光の一つ一つにまなざしを注ぐことで表出しようと心がけている作者の姿勢がよくわかる。しかも単なる外界の感覚的な描写による花鳥風月的な伝統美を越えて、倦怠感に麻痺させられたような雰囲気と退廃的な気分が叙情的に詠われていて、露風の主張する「自然の奥深くに潜んでいる生命を窺知する努力」が見事に結実している作品である。この詩の結句で「『時』はゆく、」と反復される『時』はそういう意味において、過ぎ行く晩春であると同時に、作者の悲哀と甘美に満ちた追憶の時間でもある。さらにいえばそうした追憶の内実を晩春の景象によって描いて見せたといってもいいだろう。

 詩集を一読して「多大の感動を覚え」た荷風はただちに懇ろな礼状を送り、刊行を祝福した。彼は特に「単なるメロディー」から「幾多のアルモニーを含めるもの」へと複雑化したこと、「語格正しく、作意の明瞭に了解せらるる」ことをあげて、「現代の新詩中他に類なきもの」だと激賞した。

 ここに至ってようやく露風は、白秋とともに詩壇の有望な新進詩人としての地歩を固めた。好評を得て迎えられた『廃園』は、翌年11高村光太郎の装丁で装いも新たに再販が博報堂から刊行された


10 三田文学による

  428月上旬、「東京へ出て僕は大いにやる、是非やる、やるとも」と決意も新たに内海と別れて上京した彼は、すぐに一ケ月の入院生活を強いられてしまった。退院後、居を牛込区袋町12番地の信陽館に移し、翌年4月までここで過すことになる。
  信陽館は神楽坂を牛込見附の方から上って行った坂を左手に入った所にあった。かつて吉江孤雁や歌人の窪田空穂らもいたこともある下宿屋であった。その当時、神楽坂は乱雑極まるが活気のある学生街であったという。
 その頃の露風の消息を、「四十二年、秋、詩集『廃園』を公にして詩壇に於ける位置ここに定まる。近く亦『廃園』以後の詩集を出すべく、目下制作に余念なしと云ふ」と「現代文芸百家小伝」(新潮 431月号)は紹介している。11月の内海宛書簡も、翌年3月に第二詩集を出すこと、一幕物の劇詩を書くこと、1月から詩の会合を開催したいことなどの抱負を語っているが、特に、荷風、葉舟、砕雨(光太郎)、嘉香等と雑誌を出す計画を持っていると書いている点が注目される。しかしこの詩会は、どれほどの実現の可能性もなく、ただ思いつき程度のことを内海に話したというところが真相であろう。
 現実生活は「近頃は詩作ばかりでなく傍ら雑誌のエヂタアをも兼ねてゐるのだから嘸かし多忙なことだらう」(新潮 5月号)と他から同情されるほど生活費を稼ぐために奮闘していた。このころ彼が携わっていたのは、主に『新文林』の編集であった。
 『新文林』は『中学生』を改題改号した投書雑誌で、414月の創刊号の抱月をはじめ、秋声、霜川、泡鳴、御風等主に自然派の人々が寄稿していたが、投書雑誌全般の人気が下降していく中で『新文林』も精彩を欠いてきていた。露風は425月から汪洋にかわって口語詩の選者を担当していたが、発行所が白鳳社から光華書房に移ったのを機に433月、葉舟とともに編集の任に当たったのである。が、「御存知のとほりまことにくだらぬ雑誌に候へば改革するには中々骨が折れ申侯」とこぽしているように、とても挽回の見込みもなく、5月にはついに休刊に追いこまれてしまった。
 「もとより此事たるや小生と雖遺憾に堪えざるところなれども又再び別の条件の下に再興する時機のあるべきを期して此儘当分の間は見捨て去らんと存侯」と多少の未練を残しながらも、「小生は蜘蛛の巣に自ら懸らんとして此度は帰京いたし侯ことなれど又此問題の残り始末の相談に煩はされおれば恐らく小生死んでしまふだらう」と考えた露風は、同志社の友人の紹介で京都相国寺の僧房の一室にしばらく閑居の場を求めて、5月はじめ東京を離れた。
 古都は花も散り新緑の季節を迎えていた。初夏を愛する彼にとってここでの生活は大いに喜ばしい気分をさそった。寂しい中に歓楽を現しているような岡崎公園の葉桜を眺めたり、赤いつつじの花に降りそそぐ雨の僧房の前庭の幽趣を味わったりした。自然に沈潜する境地を好む彼の性情を、それは十分に満足させたことであったろう。「浮世を離れしおもひとはまことに此生活をいふべき言葉か、つくづくと思ひ到りて心感ずること頻りに候」と遁世的気分に浸りながら、時に日本の古典文学作品をひもとき、時に散策逍遥する毎日を送った。

 だが、この間にも文壇との交渉が絶たれたわけではなく、特に京都在住の文人との交流の輪はすぐに広がっていった。中でも上田敏との再会は彼を人生の新たな局面に向わせる重要な機会となった。東京ではたまたま『三田文学』発刊の話が持ち上っていた。それは慶応の文科の内容充実のための一大事業として企画されたのであるが、そのために、相談に与った森鴎外は京都帝大の上田敏を招聘しようとした。敏は大学側の事情で断わらざるを得なかった
が、慶応大学顧問を引き受けた。

 一方、『三田文学』の編集責任者は、永井荷風であった。『廃園』刊行前後から特に親交を深め、一時はともに雑誌発刊の夢を抱いた間柄であった。荷風の『三田文学』にかける熱意は「自分は手紙を沢山書いた。車に乗って今まで訪れた事のない文学者を訪ねた」という回想記によく表れているであろう。彼の要請文の一通が露風の手に落ちたとしても不思議ではない。のみならず敏じきじきの参加要請を受けることとなっては、無下に断わるわけにはいかなかった。「しかし々今年小生は自らも思ひがけなき決心を促され申侯」と事の意外な進展に驚きながらも、これがこれからの己が進路と見定めた彼は、「学校のためにも小生自身にも双方の便利ならんとの事なりし故いくたびか小生も考慮の結果」遂に説得に応じて6月上旬上京することにした。

「僕は東京といふ長年住んでゐる土地に此芝区のあることを殆ど知らなかったと云ってもいい程新しい印象と驚きとを受取った」という慶応近辺の風土の目新しさは、新たな文学領土への開眼を予兆するものでもあった。「僕はあまりに牛込本郷等の文士の巣に馴れて又早稲田の勢力をばかり見過ぎてゐたのです初めて(然り正しく)慶応の勢力範囲の土地に来て其の活気のある気持の広い全体の色調にオビヤカサレました」という認識の転換は、その後の彼の文学活動の基調ともなるといっていいだろう。
 慶応への転籍のための面談を果した彼はすぐに京都に戻り敏に報告を済ませると、神戸の父の家に身を寄せた。

上京後話整ひたる上は一且又学資を貰ふ談判のため竜野迄帰るつもりなり、竜野にては元来小生の学校生活には冷淡にて取り合はぬ方針を取り来りおれば今度はよく頼んで見るのに候(91

しかし、この金策が不成功に終わったことは、「先日も西の方へ下っては行ったが、かねて自分の思ふてゐたことは少しも云ふことも出来ずにそのまま東京へ帰った」という手紙の文面によって明らかである。そして挙句の果ては、例によって「何卒、左の要件に就て御熟慮の上御返書給り度待人侯。向ふニケ年間例月廿円宛学資御補助願ひたき事(101)」と大学の始業が差し迫った826日になって、万策尺きた彼はまたしても内海に泣きつく羽目となった。 内海は、この春喀血して倒れた。その後相生海岸に転地し療養に励んでいた。加えて、「ローマン主義文学の敗亡と明治の精神の挫折」(内海信之人と作品 昭45 田畑書店)は、詩作に対する執着を放擲するに至っていた。そうした絶望的な境遇にある友人に学資援助を願うのは、彼としても遠慮されたであろう。しかし、詩稿や詩選から得られる金銭はたかが知れていた。当時彼が詩作品を発表したのは、主に『新潮』や『文章世界』であり、他には『秀才文壇』の詩壇月評などであった。また42年秋から翌年にかけて「悪酔」「種谷先生の死」「都会の女」などの短篇小説を手がけたが、それも『新文林』、『秀才文壇』といったいわば身内の雑誌に限られていた。それらの稿料は、せいぜい日々の糧を満たすのが精一杯で、とても学費に回す余裕はなかったと考えられる。
 自力ではどうすることもできない露風の衷情は、また内海もよく知るところであった。「貴兄の楽しき希望を小生一身の都合の為挫折いたさせ申すべき事いかにも堪えがたき事と思ひ侯」と恐縮しつつ謝意を表わし、その恩に報いるべく、内海の依頼を受けて『淡影』の刊行のため、8月末から10月半ばまで奔走する。不治の病と宣告された内海の青春の形見ともいうべき『淡影』は、以文館から出版された。装丁は川路柳虹が快く引き受けてくれて、露風は編集から用紙の手配、印刷所との交渉、校正、納本届書の作成、配本先など事務的な一切の仕事をこなした。
 この間、露風は経済的な苦境に煩わされながらも、一度舳先を鋭角的に変えてしまった後は、精神的には安定していた。『明星』廃刊後に、新詩社系の者と木下杢太郎や北原白秋ら『屋上庭園』の同人も参加して発刊した『スバル』に始まる新たな文壇の潮流は、この年『白樺』『三田文学』を興し、更に『新思潮』を復刊させる。はからずもこの気運に乗じることとなった露風は、自分の転身が「全く一種の謀反にして一寸やかましい問題となる」ことを憂慮していたが、前にも述べたように早稲田詩社はとっくに瓦解し、その後継とも言うべき自由詩社同人とも疎遠になっている今となっては、さして深刻な問題も詩壇に投げかけず、彼の煩悶も彼一人のとりこし苦労という結果となった。

 露風が「魚(神と魚)」「暗き地平」を『スバル』に寄稿したのは明治432月号であり、『三田文学』に寄稿したのは、5月号からであった。こうして『スハル』『三田文学』に急接近した露風は、正宗得三郎を介して『白樺』の仲間とも新たなつながりを持つに至った。「僕は琅玕洞の夜を僕等の生活の周囲にある最も美しい一つに数へるのです」と、ある晩正宗と訪れた琅玕洞の様子を、そこの主人である光太郎の風貌やとりかわした会話をおりこみながら、いかにも洋行帰りの芸術家の根城にふさわしい雰囲気に、浮き立ち酔いしれた筆致で内海に伝えている。光太郎は。帰朝後、白秋や露風の詩に接して、「現代日本語の美しさと、弾力性」に目覚め、日本語による自由な詩的表現の可能性を知り、「詩は結局自分の言葉で書けばいいのだといふ、以前からひそかに考へてゐてしかも思ひ切れなかった事を確信するに至」って、詩作への激しい衝動をかき立てられていたころであった。
 『スバル』の裏表紙に二人の漫画を描いて、尊崇の意を表わした光太郎らとの一夜の歓談は、琅玕洞に横溢する舶来趣味と合わせて、例の慶応の新鮮な印象ととともにこれまでとは全く異質な世界の存在を彼に開示して見せた。 この時期、すなわち42年の秋からの1年間の露風の魂の遍歴の記録が『寂しき曙』である。この詩集は61篇の詩を収め、11月博報堂から刊行された。装丁は川路柳虹、献辞は永井荷風であった。第三詩集を出版する計画は、42年暮にはあったようであるが、はっきりした目途がついたのは、「『寂しき曙』を本月中に御送付申上べく侯」と内海宛の書信に記している433月ころであろう。しかし実際の刊行はそれから更に数ヶ月遅れることになった。収録した作品の発表時期を見ると、大半は432月までのものが占めているので、ほぼこの時に原型はできていて、後は出版を待つばかりであったと推察される。それに5月、8月『三田文学』に発表した10篇ほどの作品を追加してようやく11月に出版の運びとなった。
 表紙には「メズーサとも見える、憂愁を象徴する線描きの面が一つあしらってある」が、これは森川葵村所蔵のイエーツ詩集の装丁から借用したものだと嘉香は解説している。葵村は島本久恵いうところの酔茗門下の「若い一群」の一人で、露風と同年の一橋の学生で『詩草社』の編集を手伝っていた。彼女によれば、蔵前生まれで根岸育ちという生粋の都会型の葵村と野性的で狷介な地方人型の露風を結び合わせたのは両者に共通する孤独な心情であったという。ふたりの微妙な関係については、島本が『明治詩人伝』の中で「ひょっとすると葵村は露風を根岸へつれて帰り、そこから露風の根岸通いが、日につれ足繁くなって行ったと、そう取って、あまり大きな間違いはないかと思われる」と述べたあと次のように述べている。 
 葵村はその朝戻りのうらぶれの露風を、嫌悪をつつまず迎え、 そんな朝にいつでも無言で対しながら、そのうらぶれをしんからの侮蔑に持って行けないものが彼の中にあった。 「歓楽は何処にありや、美なるもの何処にありや」これは詩だけの空言ではない。このような空虚、このような深刻、その堪らない朝の顔をわざわざ自分に持ってくる。葵村は自分の性来の潔癖に困じながら、しかもこの友だちの心にいよいよ深む頽廃をひそかに解した。時にふっと敬意を感じた。
 「歓楽は何処にありや、美なるもの何処にありや」は、「青ざめたる心の嘆き」の一節である。その前後の詩句は次のようである。

  「孤独」と──

  さなり、われは此の声をきく、

  (略)

  一夜の女子が幅広き胸の上に、

  なほも聴く、ああひとり、

  ああ一人、この私語(ささやき)を……

  歓楽は何処(いづく)にありや、

  美なるもの何処にありや、

  胸痛く、心青ざめ、

  永久(とこしへ)にわれはさすらふ。

  ここに詠われた情景を、作者の空虚感も含めて島本は現実のものと理解して「空言」ではないといっているのであ

る。大正27月『秀才文壇』に発表した小説「倦るい朝」は、葵村らしき友人と吉原に遊ぶ様子が描かれていて、こ

れを参照すれば島本の記述は、フィクションとは思われない真実味がある。「新潮年譜」では、「春の頃より酒色に親

しみ漸く溺るるに至る」年を44年のこととしているが、露風のデカダンスな生活は41年の頃から始まっていたといえる

かもしれない。

話を元に戻して二人の交友は、三井物産に就職した葵村が、神戸支店に転勤するまで続いた。その間、露風の吉

原通いが続いたかどうかは審かにする手段はないが、葵村は、商社勤めの傍、444月、前田タ暮が『向日葵』の後

身たる詩歌中心の雑誌『詩歌』を発刊すると、嘉香らとこれに加わり、詩を寄せるとともに、イエーツの象徴詩論を紹介

し、449月前後、嘉香との間に象徴主義論争を展開した。その彼の象徴詩論は、『寂しき曙』から『白き手の猟人』に

至る露風の象徴詩論の形成と詩作に多大な示唆を与えた。『寂しき曙』に彼所蔵の新着の1908年版イエーツ詩集の

人面が写されたことは、だから、単なる気紛れや思いつきを越える深刻な意味を持つものであったのである。

  『廃園』刊行後の彼の作品は、除々に寂寥の’気分を表現する内容へと転じていった。季節も秋から冬へと向かう時で、その季節感の反映もあったが、むしろ「小生は神様と優しい妻とが同時に二つとも欲しいのに侯こんなことで小生はよく泣くこと有之侯」という人生の孤独感に根ざしているものである。神と女性とはともに彼の衰弱した魂の救済者として憧憬される存在であった。凋落の秋は、衰退疲寇した彼の魂の憧憬を増大させる働きをしたのである。10月以後の詩は「秋のをはり」「秋はそこより」「秋の夜の小鳥」「秋のおとろへ」、「冬」「寒きのぞみ」、「日没」「日没のうた」、「わが愛慾」「暗き地平」と主なものを拾い出してみても、秋から冬、日没から夜への暗爵な世界を彼の心象風景の象徴として表出していることがわかるであろう。『廃園』の持つ甘美な感傷と優美な色彩は、ここではすっかり彭をひそめ、あるのは苦渋に満ちた魂の、薄明か幽暗の中での痛ましい呻吟だけである。そしてその呻吟は、神と優しい女性に求められる人間の存在へのノスタルジャーである。彼はここに到って現実生活の寂寥の奥にひそむ人間存在そのものの寂しさに想到したというべきである。寂しき曙の野に立つ裸形の魂の敬虔な叫び声がこの詩集の中核をなすのである。
 詩集冒頭の「神と魚(初題は魚)」や「沼のほとり」には、そうした露風の心的状況が最も色濃く反映されている。

 つねに曙の寂寥に棲む。

 太陽は海の彼方をめぐり、
  夜はまたこのところを忘れ去る。

  神の名を彫りてその石を埋め、
 その石埋れてふたたび見ず。

ああ! 雪は単調なる世界を築く。
   葉もなき木は
   凍れる池の上に影を映せり。
   長き時を費やせども、その影うごかず。

  今見よ。魚は下より浮びいづ。
  魚は下より……事もなく外をうかがう。(神と魚)

 青ざめたる光、音なく
   あけぼのは雪の上にきたる。
   風は幽かに枝を震はし
   木は屍の如く、空しき(かひな)を交す

その時君は沼のほとりにあり。
   沼の水凍りて、
   煙の如く「夜」は靡けり。
   いかなれば君のここにありしか、
   ああ。いかなればわが眼に、君の視ゆる。

その面は憂愁のスフインクス、
  「過去」よりきたる悲しみの烙印あり。
   霊は、雪に埋もれて燃え、
   荒きすすり泣きの声、そこよりきこゆ。 

木は屍の如くに充つ。
   蒼白きあけぼのは今、来らんとす。
   語れよ。無言の君、寂び果てし沼のほとりに。(沼のほとり)

 詩集の冒頭を飾る作品である。嘉香は「『神と魚』に次いでは、『沼のほとり』がいい。集中の傑

作はこの二篇である。 あるひは、象徴詩としてすぐれた作はこの二篇だけといっていいかも知れな

い」と評価している。彼によれば、これらの詩は人生に疲れた肉体と心霊の憂愁に囚われた詩人の息

苦しい気分を象徴的に見事に表現しているという。しかも「神と魚」においては、末尾の
2句が暗黒

の寂寥の世界に射す一道の曙光を暗示していて、露風の精神史の新たな展開の予兆ともなっていると

説いた。もう一人の露風の心酔者である岡崎義恵は、「神を見失った魚の心によって、自己の深き内

面の苦悩を表現した」という見解を示している。嘉香は浮かび上がる魚を信仰による新たな救済の象

徴と考え、岡崎は信仰の喪失の象徴とみているのである。作者自身は「セガンチニが、当時の私にと

ってはなつかしいものであった。その『信仰によって慰めらるる悲哀』というやうな画は、やはり私

の至境であった。そして私は『神と魚』と言ふ詩を書いた」と作詞の動機を「我が詩作の経路」で明

らかにしている。「沼のほとり」においては、過去の悲哀と寂寥の世界との決別の意思が「蒼白きあ

けぼのは今、来らんとす」と明瞭に表現されている。これらの詩に詠われている肉体と心霊の秋から

の回帰というテーマは、次の『白き手の猟人』に引き継がれるテーマである。