三木露風の紹介

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5度、5度、これは全く自分の作曲の中心原理だ

民族派の音詩人─清瀬保二

 

 日本における西洋音楽の先駆者を語るとき、まずあげられるのが滝廉太郎であり、山田耕筰であるが、それに継ぐ音楽家として清瀬保二の名がある。

 清瀬の音楽の根底には、日本音楽の5音音階がある。彼は、この音階が西洋音階に比べていかに単調で単純で空虚であるかを十分認識した上で、なおかつこの原始音階にこだわる理由として我々日本人はこの音階に西洋人が感じ取るよりもずっとずっと複雑かつ重大な表現能力を秘めている点を強調している。すなわち「民族派の音詩人」といわれるゆえんである。

 清瀬は明治33(1900)年、現在の大分県宇佐市に生まれた。父は酒造業、旅館、銀行などを営む大地主で、貴族院議員もつとめた地方の名士である。旧制中学時代に兄が持ち帰ったバイオリンで西洋音楽に開眼、

夢中になったが、旧制松山高校時代に楽器店で購入したベートーベンのメヌエットの楽譜を演奏して、楽想の暗さと深さに感動し、「一生音楽に捧げても悔いはない」と思った。その際、演奏家と作曲家のどちらを選ぶか迷ったが「生来内気なので、ステージで十分自己表現するにはむかない」と考えた彼は、作曲家としての道を歩む決意を固める。即刻高校を中退し上京。山田耕筰の門をたたく。しかし、山田の和声学に違和感を持ち辞して帰郷。以後彼は「初めから法則はない」という『ロダンの言葉』に励まされて独自の音楽世界を模索する。81歳の生涯の間に生み出された作品は、オーケストラ曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲、歌曲など総数500曲のも上るという。

 彼はもともと文学に対して強い関心があり、鹿児島や郷里で作曲の独学を始めたころは、「短歌を書きなぐり、与謝野鉄幹主宰の『明星』に投稿したり、ドストエフスキーに心酔して短篇を書いてみたりもした。」また、武者小路実篤の「新しい村」に共鳴したり、ロマン・ロランの『ジャンクリストフ』を非常に感激したこともあった。

 ある時、白秋の「落葉松」に曲をつけて、白秋に出版の希望を述べた。ところが白秋からは「地方の無名の一青年がピアノ伴奏もないくだらぬ作曲など、この名詩に作曲などして失礼千万だという意味の大叱正を」こうむり「渡しの体は氷結したかのようにすくんでしまった」(「作曲家を志すまで」)という。

 露風との関係で言えば、「性格的には都会人になれないようであるので、そのために求めるテーマが田園的になることは止むを得ない」(「最近の論争について」)と自ら認めているような傾向から、露風の詩風に親近感を抱いたであろう。彼が作曲した露風の詩には次のようなものがある。(布川純子「楽曲化された露風並びに作詞校歌の目録『三木露風の世界』所収」)

 1.秋(廃園)

 2.接吻の後に(廃園)

 3.岩と鳥(幻の田園)

 4.鐘(寂しき曙)

 5.涙(寂しき曙)

 6.眠りの歌(寂しき曙)

 7.蘆間の幻影(蘆間の幻影)

 8.雁ぶみ(蘆間の幻影)

 9.樽の歌(蘆間の幻影)

 10.野薔薇(蘆間の幻影?)

 11.帰帆(青き樹かげ)

 12.緑の小島(青き樹かげ)

 13.やすらかに居りて(神と人)

 14.祈(神と人)

 15.白波(神と人)

 『廃園』から『神と人』まで、露風の生涯の詩集から選び出されていることは、清瀬がなみなみならぬ愛着を露風の詩に抱いていたことを物語るであろう。

 また、彼は、昭和4年ころ、『音楽新潮』の仲間入りをすることで、音楽好きの詩人前田鉄之助と親密になった。

 前田は、露風の門弟であり、後に『詩洋』を主宰した。清瀬は毎月同人の詩を作曲して発表する。前田はまた同誌に「詩と回想」を連載し、露風の思い出を語っている。露風を心から慕う門弟の一人である。

 彼の音楽生活の中で特筆すべきは、武満徹との出会いであろう。「私は氏の音楽を通じて音の大地の豊かさを知り、そこには私ひとりが立つのではなく、多くの異なる思想や感情が共にあることを知った」ときの「言い表しようもない驚きと感銘」を武満は回顧している。彼もまた「私の肉体としての音感」を模索して苦悶を続けている時期であった。「創作というものは、結局、個人のものだけれども、意識の中では集団的な民族の全体の問題としてそれを含んでいる現実というものを鋭く考え認識するという裏づけがなくてはならない」という清瀬の思想を作品の中に読み取っていたのであろう。こうして清瀬と武満の関係は、唯一のといえるような師となり弟子となった。

 清瀬保二の業績は『清瀬保二の世界』(豊の国宇佐市塾発行 1000円+送料)に詳しい

1.生い立ち

 三木露風(本名は操)は、明治22年(西暦1889年)6月23日、父節次郎(24歳)母かた(18歳)の長男として、兵庫県龍野町(現たつの市)に生まれました。父は龍野脇坂藩の寺社奉行を務めた制(おさむ)(九十四銀行頭取、初代龍野町長)の次男で、当時は父の銀行に勤めていました。母は鳥取池田藩の家老和田邦之助の長女で、その重臣の堀正の養女となり16歳で三木家に嫁ぎました。

 露風満5歳半ばの頃、節次郎との間に不和が生じ、母が弟の勉を連れて鳥取の堀の元に帰ってしまうという不幸に見舞われます。残された露風は祖父母の元に引き取られて、伯父の家族と同居することになります。

 父はやがて神戸に移って新しい家庭を持ちます。幼くして父母の愛を失ったことは、拭い去れない大きな痕跡となって残ります。そのことと裏腹に地方の城下町の名門という出自は彼のプライドの核となって、彼の人生に強い影響を与えます。

 父のことについては語らない露風でしたが、祖父の面影や思い出についてはしばしば記しています。それによって露風の幼少時の日常の生活の様子を知ることができるとともに、慈愛に満ちた祖父の薫陶に対して露風が終生感謝の念を抱き続けていたこともうかがい知ることができます。

 実際、儒教の精神に育まれ、常に中庸を尊び、清廉と勤勉をモットーとした祖父の生き方は、血族的なつながりとあいまって露風のその後の人生に貫流しているように思います。

 またこれとは別に三木家の縁戚に、島崎藤村・北村透谷らが活躍した『明治雑誌』を主宰した巌本善治や小説家の国木田独歩がいることは、露風のキリスト教入信の動機を考える上で、見逃せない事実のように思えます。

 露風の幼少年期の「生活と感情」は、『我が歩める道』という自伝に詳しく述べられています。それによれば、10歳位の時から、156歳までの遊び場は山や谷や川が主で、特に好んだのは山でした。竜野の町は背後に鶏籠山がそびえ、前には揖保川の清流が流れる風光明媚な自然に恵まれた町です。本書に収録した追憶童謡は、故郷の自然に親しんだ孤独な少年期の体験を謡っています。 

おじいさん子の早熟な少年時代をすごした露風は、12歳の頃から文学に目覚め盛んに制作に励むようになりました。後に童謡「赤とんぼ」にうたい込まれた「赤とんぼとまっているよ竿の先」という俳句は13歳のときの作品です。露風という雅号はすでにこの頃から使用しています。露風の創作熱は、最初句作から始まって、散文、短歌、詩というように幅が広がって、龍野中学に入学する頃には、姫路の新聞や『少国民』の投稿の常連になるほどでした。

明治36年、露風は首席で龍野中学に入学しましたが、文学少年の常として徐々に成績が下がり、特に数学が大の苦手でついに落第しそうになったため、岡山県の私学閑谷黌に転校します。しかし1年と続かず詩歌集『夏姫』を置土産にして、表向き早稲田大学受験という理由をつけて上京します。時に明治38年8月のことです。それまでに彼の作品は『文庫』『新声』『新潮』などの雑誌に掲載されるようになっていて、文学を生涯の仕事とするに十分な確信を抱いていたのでした。

上京後の露風は同郷の有本芳水の手引きで主に早稲田大学系の文学者との交わりを深めていきますが、家族に反対されての上京であったために、経済的には苦しく小さな出版社の仕事などをしながらの文学活動を続けますが、下宿も転々とするようなありさまでした。

明治40年、上田敏の主宰する『芸苑』に抒情詩を連載する一方で、相馬御風・野口雨情らと早稲田詩社を結成し、積極的に詩人としての活動を展開することで、詩壇から注目されるようになります。明治42年、事実上の処女詩集『廃園』を刊行し、さらに大正2年象徴詩集『白き手の猟人』を刊行するに至って、北原白秋とともに詩壇を代表する存在となります。この詩集に収められた「冬夜手記」と題する象徴主義宣言は、この頃の彼の詩に対する考え方を端的な言葉で言い表しています。その中に「肉体の中に、山川草木の気を観る者は象徴主義者なり」という一節があります。自然も人間も「気」という不可見の霊妙な世界を内包する存在として、融合相即の関係にあるという、観照的な考え方は、彼の人生観と芸術観に共通する根本的な思想もいうべきもので、彼の芸術を理解する際に決して忘れてはならない鍵となっています。自然と人間を含めた世界と芸術の関係について、「世界は世界自身実在であることが価値である。そうしてわれわれは、その実在を詩の中で開展せしめることができて新たな価値を生む」と彼は述べています。人生も芸術も、実在、すなわち「不可見の霊妙な世界を内包する存在」に触れることによって高められると彼は考えていたのです。

その後露風は、西条八十・柳沢健をはじめとする若い詩人たちと「未来社」を興し、詩壇の第一人者として君臨しますが、肉体と精神の衰弱から次第にキリスト教に傾いていき、大正9年、函館トラピスト修道院の教師として赴きます。

その頃、鈴木三重吉の児童誌『赤い鳥』が発刊されたことを機に、にわかに童謡運動が盛んになりました。詩人として著名な露風にも『赤い鳥』での童謡の選者の依頼がありましたが、彼はこれをことわり、もっぱら『こども雑誌』『良友』『金の星』などに作品を発表し続けました。

露風には子供がなかったのですが、さいわいトラピストでは大勢の生徒たちに囲まれて暮らしていました。そのこどもたちとのふれあいの中で、多くの童謡が生まれました。露風の童謡にキリスト教色が強いのは、そうした環境が背景にあるからです。

大正13年、4年間の修道院生活にピリオドをつけて上京、池袋の近くの戸塚にしばらく生活したあと、昭和3年に北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住しました。それからは不幸にして、作品集を刊行する機会に恵まれませんでしたが、宗教と詩の講演会に地方に何度も足を運ぶなど、日常的には結構忙しい日々を過ごし、詩の制作も、<業>のように行われていました。公表されなかった膨大な数の詩篇がノート類に書き残されていることで、そのことを知ることができます。童謡も含めてそうした詩をまとめて詩集を刊行することを念願していたこともわかっています。しかし、ついに実現されないままに、昭和391963)年、不慮の輪禍が満75歳の命を奪ってしまいました。

なお、幼い時別れた母は、後に新聞記者の碧川企救男と再婚し、家庭の主婦の立場から,婦人参政権の獲得をはじめとする女権の確立に専念するとともに、禁酒運動などにも活躍し昭和36年91歳の生涯を閉じました。その運動を支えたのはキリスト教に対する深く敬虔な信仰でした。

露風の母に対する思慕は終生変わることはありませんでした。その思いの強さは、母の通夜に家族の許しを得て添い寝をしたという一事によっても察することができるでしょう。

(『三木露風童謡詩集』 ネット武蔵野刊 より転載)


2.略年譜

年号 西暦        事   項
明治22年 1889年 6月23日、兵庫県揖西郡龍野町8番屋敷(現たつの市上霞城101番地)に、父三木節次郎、
母かたの長男として出生。操と命名。
26年  1893年 4月、町立龍野幼稚園に入園
28年 1895年 2月、父母離婚(戸籍上は29年2月)。祖父の家に引き取られる。6月龍野尋常小学校入学。
母帝大(現東大)病院付属看護婦養成所に入所。
32年 1899年 4月 伊水高等小学校入学。
35年 1902年 『少国民』4月1日号に「朝めし前」(散文)が掲載される。以後常連になる。従兄らと回覧誌『小園』を作る。
36年 1903年 4月、県立龍野中学校首席で合格。11月、『文庫』にはじめて短歌2首が採られる。
37年 1904年 11月、私立閑谷黌へ転校。寄宿舎に入舎。11月、『文庫』掲載の詩「書写山」が河井酔茗の目にとまる。
38年 1905年 岡山の文芸誌『白虹』の同人となる。7月、退学。『夏姫』刊行。8月、上京。『車前草社』(尾上
柴舟主宰)に参加、『新声』誌上に短歌を掲載。北原白秋・若山牧水・前田夕暮らと交わる。
40年 1907年 2月、『芸苑』に「高麗琴」5編を発表。4月、相馬御風らと早稲田詩社を結成。9月、早稲田大学高等予科文科に入学。諸誌に詩を発表。
42年 1909年 9月、『廃園』刊行、祖父に献じた。(21歳)
43年 1910年 9月、慶應義塾大学文学部に転入学(翌年退学)。『寂しき曙』刊行。
44年 1911年 1月、祖父制死去。
45年 1912年 1月、『朱欒』特別号『勿忘草』刊行。詩壇の地位を確立する。
大正2年 1913年 9月、『白き手の猟人』刊行。
3年 1914年 1月、栗山なかと結婚。東京池袋に寓居する。2月、季刊『未来』発行。(26歳)
4年 1915年 7月、『幻の田園』刊行。9月、『露風詩話』刊行。11月『良心』刊行。
7年 1918年 9月、弟勉病死。11月、雑司ヶ谷亀原に転居。
8年 1919年 7月創刊した『こども雑誌』の選者となる。
9年 1920年 5月、函館トラピスト修道院に講師として赴任。10月父節次郎病死。11月、『蘆間の幻影』刊行。
10年 1921年 12月、『真珠島』刊行。
11年 1922年 受洗、霊名パウロ、妻はモニカ。6月、『信仰の曙』刊行。
13年 1924年 6月、修道院を辞して上京、池袋近郊の戸塚に住む。
15年 1926年 1月『修道院生活』刊行。6月、『トラピスト歌集』刊行。7月、『神と人』刊行。10月、『お日さま』
刊行。11月、『小鳥の友』刊行。
昭和3年 1928年 7月、北多摩郡三鷹村(現三鷹市)に定住。8月、自伝『我が歩める道』刊行。(40歳)
33年 1958年 12月、龍野市名誉市民に推される。
37年 1962年 1月、母かた死去。
38年 1963年 11月、紫綬褒章を受章。
39年 1964年 12月21日、交通事故に遭い、脳内出血のため29日死去。
40年 1965年 1月,勲四等瑞宝章追贈される。

(『三木露風童謡詩集』 ネット武蔵野刊 より転載)

3.趣味と好尚

(『文章世界』大正3年8月号のアンケートより)

4.人物評

5.「誠」の詩人・三木露風 2007/6/30

 象徴詩人三木露風、宗教詩人三木露風という称号は、かなり定着している。しかし、まごころの詩人三木露風については、今まであまり目にし耳にしたことがない。

 多分、露風の詩人としての活動が、カソリックへの回心をもって終了したという一般的な認識がその背景にあるのだろう。

 しかし、年譜を辿ってみても分かるとおり、函館の修道院を辞して上京したのが1924(大正13)年、三鷹に居を定めたのが1928年、40歳の時である。そして没年が1964(昭和39)年で、後半生の生活が40年に及んでいるのである。この後半生を便宜上「三鷹時代の露風」と言わせてもらえば、この三鷹時代の生活を閑居、隠棲という言葉で片付けてしまうのはいかがなものだろう。事実、この時代、彼の詩人の活動は活発になされていたことは、丹念な資料の収集によって次第に明らかになりつつある。

 それらの資料を通して浮かび上がってくる彼の大変顕著な精神的位相は、一つに鬼貫への傾倒にみられるような「誠の道」であり、もう一つは「気」を中心とする世界観である。

 上島鬼貫は、元禄時代に伊丹派の中心的存在として、独立不羈の誹風を鼓吹し、江戸の芭蕉に比肩するほどの俳人であった。露風の「鬼貫の人と俳道」(「雨窓点滴」所収)の説明を借りて言えば、儒学の造詣が深く、その影響を受けて、一代の誹風を立てるに至った俳人で、儒学に基づく俳諧を唱道し、生涯にわたって真の俳諧道を究めようとした求道の大家であった。

 彼が最終的に到達した、いわば大悟の境地とは、「まことの外に俳諧なし」という、儒教的な倫理観と俳諧道の有機的な結合であった。誠とは「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」という孟子の言を引くまでもなく、儒教倫理の基本的な徳目である。宇宙万物、天地自然を貫く真実で偽りのない理法が、人間にも備わっているものとして自覚反省し、その本性を日常において体現するところに、人生の最大の愉楽を見出せと孟子は説く。鬼貫はこの儒教の教えに導かれて、宇宙的な原理との合一の中に俳諧道の理想を見出そうとする。「乳ぶさ握るわらべの、花に笑み、月にむかひて指さすこそ天性のまことにはあらめかし」(『佛兄七車』序)という鬼貫の有名な一句があるが、それは思無邪、天真爛漫の天性をもって万物自然に共感共鳴することこそが、誠の俳諧道だという主張である。いいかえれば、技巧や修飾に作意を走らせようとする態度は、誠の精神の逸脱として戒めることでもある。

可不可、上手下手にとらわれず、「俳諧はみづから述べて自ら心をよろこばしむ」(『佛兄七車』)ものという自足の境地こそが、鬼貫の究極の俳諧道であった。

 鬼貫についての露風の論及は彼の全集には前掲の一篇を数えるのみであるが、三鷹市所蔵の資料には、「鬼貫の句の評釈」や、「鬼貫に就て」などが存在していることによっても、三鷹時代の露風がどれほど鬼貫をおのれの生き方に重ね合わせて考えていたかを、思い知らされるだろう。彼は「俳諧上の識見に於ては、或は、芭蕉よりも、まさったところがある」とまで称揚する。「倫常の精神を体とし、行住坐臥、人格を磨き、さうして、俳句も亦此の精神からして作るといふ」鬼貫の誠の道は、そのまま露風の人生の理想でもあった。

短歌集「白萩紅萩」の中には、次のような短歌を見ることができる。

 

芭蕉翁俳聖なりと人の言ふ鬼貫をこそ我れはとりなむ

 誠なる道のみひじり心なれさは言はざればいつはりにして

 

露風は、『白き手の猟人』に代表される象徴主義を唱導した頃、もっぱらその思想的・文学的根拠を芭蕉に求めた。それは、芭蕉の「風雅の誠」にあこがれてのことであった。しかし、三鷹の露風は芸術の領域からそれを支える倫理の世界に思いをいたすに至ったのである。そこから彼は「独立不羈」の「心・詞一体」論者に尊崇の念を強めていったと思われる。「心にもない詩を作ってあざむくよりは、心ばかり、独り楽しむのは宜い」(「修道院生活」)という露風にとっての誠の俳諧についての信念は、終生変わらなかった。現在残されているおびただしい数量の詩作品は、いわばその「行住詩録」であった。

 もう一つの顕著な特徴は、生気論的な世界観である。たとえば「気体に見る春の印象」(『微光』所収)はそれを具体的に示している好例であるが、その第1節では、

 

 よきかな、光の中をあゆむことは、

 げに、そこには空しけれど、

 気体に魅力ありて、

 わが心を波だたすところの

 目に見えざるものあり。

 

 と、「目に見えざるもの」と「気体」との関係が歌われている。「新しき生命は、常に我等に宿らねばならぬ。生命は、必ずしも生理的の意味ばかりではない。真理の生命をも意味すると私は考へる」(『新しき生命』序)と生命の意義を説いているが、ここでいう「真理」は、「誠」という概念に置き換えてもいい。それが不可見なのは、それこそ「天の道」である宇宙の根本原理たる生命原体だからである。気はその現れであり、万象は気の凝縮体である。可視的な自然はいまだ空虚であっても、季節を司る天理はまず気によって生命を吹き込もうとする。それを受けて人間もまた自然と同様「新しい生命」を体内に宿らせるというのである。ほかにも「気」を歌いこんだ短詩は、彼の手稿の中におびただしい数見出すことができるが、紙幅の関係で武蔵野の四季の眺めに現れる造化の不思議を読んだ俳句「象うつり気変化して過ぐる」を、参考までに補足しておこう。

 ここにもまた、儒教の誠の精神が別の一面を投げかけている。此の境地を鬼貫ならば、「只、わが平生の気心、高天が原に遊んで雪月花のまことなるに戯れ神妙をしらば、目に見えぬ夢の浮橋、足さはらずして踏むに心よき地、平平ならん」(『俳諧高砂子集』序)と表現するだろう。

 このように考えてくれば、象徴詩人露風、宗教詩人露風に続いて、三鷹時代の露風を「誠の詩人露風」と称することができるであろう。

6.自選詩集

『三木露風詩集』 

目次  

1暑い道 2桜の葉 3街通り 4朝の鳥 5眞砂 6朝凪 7門出 8おちついて 9去るとて 10饌 11餞 12數羽の小鳥 13太陽の光 14水平線 15薔薇17籬の花 18野菊 19.茴香酒 20紅薔薇 21苔 22緑 23白色 24樹陰25中流 26憂鬱 27望見 28川の面 29憂鬱性 30あやめの花 31 夏の日 32錯雜 33今日 34曇 35荷 36月夜 37春 38桜を見て 39花を賞する 40月 41.清い水 42水面

(42篇中31篇を復元)


桜の葉 


桜の葉の周圍には

ぎざぎざがある、

それが順序よく奇麗に、

はっきりと、規則的に並んでゐる、

それを見るだけでもよい、

あのよい花を咲かする桜、

それだけに、そこがよい。

 

 

街通り

 

建物の持ってゐる色、

擬灰色のその色を、

日の色に染めた、

甚だはっきりしたところを、

市街で見る。

 

殊に夏の日は、

今のやうであってよい、

すべて高いので、

そこからして、

街通りを、

至って深くしてゐる。

 

 

牧場

 

牧場を照らす、

旭の光、

横にたなびく、

雲がある。

 

ここでは、

自由の感がある、

心を、

放ってゐる。

 

 

薔薇

 

幾つともわからぬ、

複辧である薔薇、

その豊かなところと、

不規則なところにある

魅力が、

どんなに、

花を、

美しくしてゐるか。

 

 

茴香酒

 

茴香酒は、

都の滴たり、

擬りて成る、

他を忘却しての、

静けさに、

飲む。

 

 

川の面

 

静かな流れ、

いつもと変わらぬ、

川の面、

ふるさとの、

感が、

そこにもある。

 

 

夏の日

 

夏の日の、

白氣。

 

あまねく、

よく満つ。

 

草叢より、

道に近き處へ、

蛇が出づ。

 

道の虫、

熱しおれるを、

知りたる彼。

 

ためらひて、

傍に、

とぐろを、

巻く、

腹を摩るをいとひて。

 

 

錯雜

 

如何にすべきかと思ふ、

屢々ある、

多角形のこと。

 

錯雜の中、

構成したる、

その心理。 

『想念』(三木露風詩集 第六十八集)

目次

1情趣 2天候 3春の空 4棧橋 5山吹の花 6濃厚 7空の行程 8道にて 9生活にある 10鳥の聲  11波頭 12殘櫻 13黝雲  14三色菫 15嶮 16過ぎ行く時 17日 18一過程  19春の空色 20秋風 21.觀 22.緑の自然 23遅桜 24黒煙の状  25温度 26鳥の翼 27.灰 28感 29心に 30快適 31.黒いチューリップ 32.栗 33魚 34.星の光 35蕭々36配合 37豊麗 38.桜の花 39.憂目 40.杜鵑 41.あり 42.血の色                

(42篇中35篇を復元)

 


春の色

 

春の淺黄の空の色、

そこに暖かい雰囲氣があり、

椿の固い澤のある深緑の葉が、

日の光で光ってゐる。

 

今日は楽しい、

下界が、

私の心を左右して、

満たしている。

 

 

殘櫻

 

風強く雨も降り頻り、

惜しまるゝ中に櫻の花の散りて、

今年の花の終りは近しと、

思はせしが、

殘櫻のあるあり、

いさゝかはよし。

 

四月と云へば、

櫻の花、

さるに此の月にして、

余り持たず。

 

殘櫻を見て、

盛りなりし日を、

思ひに持つ。

 

好時にして、

殘櫻の花色、

曇りを帯びず。

 

 

遅櫻

 

遅櫻は八重櫻にて、

その葉は澤のある柔い茶褐色、

花色に紅を加えており、

重く咲きて、そこに特色ある、

美を示す。

 

花を見る人々の心は、

四月の半ばに至らぬに、

一ひらもとゞめぬ櫻に、

充たされぬ思ひを、

とりかえす、八重櫻に。

 

遅櫻なる八重櫻は、

濃厚の氣を、

たっぷりと吸ひこんでゐるのが、

その状に表はる。

 

事繁き中にたまゝゝの、

心傾く時の華やぎ、

その時を、

見出して足らふに似る。

遅櫻、八重櫻。

 

 

星の光

 

燦爛たる彼の世界は、

北斗七星の如く、

順序よく並びたるもあれど、

大方は散乱せり。

宇宙は實に、

不規則なる形状をば示し、

大なるがあり、小なるがあり、

而して北の北斗星が、

南の十字星に對す。

壮觀、

言ふべき言葉なし、

光輝の美觀、

森然として、

我が眼に映る。


『明光』(三木露風詩集 第六十九集)

 

     目次

八衢 2井然 3夏の季 4紫雲英 5淺黄の羽 6強い風 7葉桜となって 8二つの花 9棕櫚と蘇鉄 10樂境 11埃 12誠 13穏か 14狭間 15木枯 16曇る空 17.冴えぬさま 18.八重山吹 19.快い動き 20廣く大きい 21初夏の氣分 22.勝景 23環境 24海 25花の色彩 26建設 27自然を思ふ 28苦の感 29動く雲 30底の石 31深夜 32暮れんとす 33慈雨 34雪の山 35夢と虹 36向ふところ  37暑い日 38都市 39明光 40侘しさ 41蝶 42流るゝ水                 

(42篇中36篇を復元)

 

   埃

 

町端づれに、

僅かに残ったやうな、

疲れたさまの、

木があるそれの、

葉に溜まった、

夏埃。

 

半ば埃色、

 

このあたりの道を行く、

足が重い。

 

   誠

 

熱き心を、

熱き涙に、

絞りて、

言ひ出でたるは、

誠がこもりてあるを、

知るや君。

 

 

曇る空

 

どんよりと曇ってゐる、

空の下の道を行き、

心がそれにより、

おのづから曇る、

さりながら、

そこに平静を、

保ってゐる、

自分を見出す。

 

 

苦の感

 

人生の苦は、

闇に等しく、

苦の去れば、

夜の明けしに、

似る。

 

あゝ苦、

如何に多き、

生ぜざるを、

願ふと雖も、

生じ來る。

 

 

底の石

 

流るゝ水に、

洗はれて、

休むひまなき、

底の石、

常にもかも、

勢と力と、

あたりてあり。

 

底の石を、

思ひ見て、

心ある身に、

かくあらばと、

又思ふ。

 

 

暮れんとす

 

今日も暮れんとす、

傾く日のいちじるし、

夕には、

影を生ず。

弱まる常と無くに、

その日ざしが、

淡き黄色となり、

反對の方は影。

我が心沈む。

 

 

 


『清香』(三木露風詩集 第七十集)  

 

     目次

1八重櫻の散りて 2林檎  3うねり  4百舌 5影  6白雲の状   7暗みて 8美鳥  9感  10人の心  11綻ばず 12あまねく   13廣き野  14耕す人  15さまざま 16.小暑  17散った椿の花 18岩  19.逆波  20春氣の頃   21.輪廻 22.清香  23路傍の草  24.上ると 25白樺の林  26夕の空 27増水 28蛙の聲 29野邊の花 30長閑 31.心に浮ぶ 32.乾 33.銅鑼 34.朗らか 35長い汀 36めぐりめぐりて 37.高原 38.道 39動く 40穏やか 41響く 42月夜の雁

(42篇中33篇を復元)


 

心の上を、

掠め、

去る、

影。

 

たまゆらに、

消えて、

又同じ。

 

日毎、日毎に、

あらたにて、

やむ時が、

無い。

 

 

白雲の状

 

行きて歸らぬ白雲の、

日に輝ける夏の象、

雨をば降らす、

雲としも思はれず。

 

自由の姿、

いづこまで、

消えて無くなるその時まで、

さまたぐるものなき青空に、

おのがじしなるそれがよし。

 

 

暗みて

 

池のあたりに、

よく繁りし、

木々のあり、

その影水に、

映りてあるに、

そこは日の暮れて、

一際暗くなれり、

鵞鳥は、

その心引き立たず。

鳴かずなり、

端の方に泳ぐ。

 

暗みて、

何の思ひ、

鵞鳥は、

淋し。

 

 

   感

 

季節の歩み、

幾日かを経て、

いちじるし、

花より若葉への時、

そこに、

すがすがしき、

感を覺ゆ。

 

 

.耕す人

 

倦まず、

たゆまず、

耕して、

今年の稲の苗を、

植うるのことをなす、

人々をば、

彼方に見る、

希望は秋に對してあり、

晴れてよき日、

廣き田地。

 

 

清香

 

花の魁、

梅の花。

 

冷えこむ、

二月、

よく花を咲かする、

梅よ。

 

木に、

寒氣の脅威、

そをよく堪へるかの、

棘を持ちて。

 

花も、

雪の覆ふ時ありて、

その溶けての後、

変わらじ。

 

清香漂ふ、

おゝ、げによし、

立ち去り兼ぬ。

 

 

路傍の草

 

暑熱の道を歩いて來て、

堪へかねて立ちどまったが、

ちりちりするのを感じた、

黒い黒い自分の影が、

ふと目にとまった。

暑熱のためか誰も通らない、

路傍の草は、

埃色になり、

しおれてゐる。

 

 

    道

 

 

坦々とした眞っ直ぐな、

よい道ではあるが、

遠くまで歩るいて行くと、

単調なのが、

氣を疲らせる。

 

埜辺の花を見て、

慰む。

 


 

 

【解説】

 

覚書のような散文を改行により詩の形にしている。読点の度に改行がなされ、一句点で一節が形成されるような極めて短い詩が多い。【詩集No23】

 

全般的に叙景詩と考えられるが、目に触れたものをそのままにうたう嘱目詩というべき詩が多い。現代における絵手紙を発想して、詩の情景を一端絵に置き換え改めて詩を読み返してみると、行間にある露風の主観が受け取れる。【詩集No.30】

 

身近な自然を、独自の視点で切り取り簡潔な表現でうたう。技巧を加えることはないが稀に独特な表現も使う。(No.11,No.23「埃色」)しかしながら、その行間に暗示される露風の情趣は自身の人生と重ね合わされるようで、屡重い。【詩集No,31】

 

誰にでも共通な四季をうたう時にも露風は自身の人生観を反映させる。No.14「耕す人」に対する前向きな心、No.22「清香」における季節を象徴する梅、No.38道の単調さを花によって慰められる心。【詩集No.32】

 

「赤とんぼ」の後、民謡や童謡、校歌などを手掛けたが、時流にうまく乗れなかった。戦後の詩壇は長詩の傾向にあったが、露風は三鷹に移り住んだ晩年は、自然と自分を一体化して、独自の世界に進んだ。

(石沢)

 

『映像』

 

目次

1膃肭臍 2暗い日 3歌声と楽声 4蜘蛛のいとなみ 5雷の後 6夏の白雲 7語後の曇り 8星を見て 9よき夏 10日めぐりて 11緑の形態 12欄 13孔雀草と常夏の花 14成果 15白ダリア 16蝉の脱 17浜木綿 18月の出 19月色 20十五夜の月 21白き大雲 22故園 23健康 24台風の日 25丁子の花 26初夏の風 27幾度び 28鳴き鳴き 29海に魅力 30橘 31青海波 32夜の空 33神無月 34移 35雉子 36世紀 37孔雀 38街道 39みのり 40曇れる日 41荊棘 42海まで 43樛 44杜鵑花 45燕子花 46文かの市 47黄金薔薇 48秋の来たりて 49ほととぎすの声 50日の色 51野中の道 

膃肭臍

 

憂鬱なる膃肭臍は、

海に日かげを仰ぎつつ、

その眼を光らせぬ。

 

重き、いと重き、

蜿りてやまぬ、

濤に見る、

日かげぞ薄き。

 

そこに眼を落して、

胸を涵し、

立つ多くの波の穂に、

かこまれつつ行く。

 

その黒褐の身をつつみたる、

毛はも膃肭臍の内面。

 

海を泳ぐ重き身の海獣、

大海を友とす。

 

それ、身は大魚と異ならず、

泳ぎ泳ぎて、

たゆみなし。

 

さはれ、高く波の上に身を現はして、

行手を望む上眼に、

おのづから入る、

青空を見る。

 

地の獣とも異ならず。

 

オホーツク海、

ベーリング海峡、

高き潮も、ものならず、

進みに進む。

 

 

   雷の後

 

大雷は、

空のあちこちに、

鳴りひびいて、

圓周となり、

又、時として、

新しい雷が發生して、

響動した。

 

空にある雲が、

雨を降らし、

その雲が、

雨となって、

解消するまで、

鳴った。

 

かくて青空が見え、

生気と活気とが、

至るところに溢れた。

 

かみなりの起った時に、

一變した感があって、

なほ又霽れて、

一變した感がある。

 

    

    夜の空

 

星が輝いてゐる、

あの空は、

昼の空に対するより、

凝視をさせる。

 

そこには深いもの、

瞑想をさせるものがある。

廣がりであると共に、

奥の知れない感がある。

 

夜の空は、

かくも、

異なっており、

沈んだ気がそこに盈ちる。

 

ああ暗示の光をして、

私の眼を射る光よ。

未知の世界を、

思ふ。   

 


 

 

『象觀』

目次  

1北国の海 2春の日没 3幽寂 4燕の巣 5しゃれかうべ 6海の中 7菊日和 8象気 9日没の時 10またたきいづる夕星 11岩金梅 12苑 13日本の菊 14孤客 15波 16一碧 17去りしつばくらめ 18温室の花 19光と花 20岸壁 21暗き日々 22村雨 23柔い群像 24夕の月 25湖霧 26季節の衰へ 27秋 28悩める人 29水の変化 30夜の港内 31精美の花 32水の音 33十字路 34熊 35觀 36盛り上る力 37島山 38藍青の海 39世と共に 40峰の松風 41日の燦光 42蒼穹 43秋晴の陽光 44炊煙 45名の無き花 46安らけき処 47万物照応 48海の夕日 49碧爛 50暁 51時は過ぐ

 


北国の海

 

蒼澄める空は、

夜の色を加へ、

海の上に見る、

そは北国の重さを、

見す。

 

気は、かかる時も、

透りて沈静、

波も、しるし、

星あまた輝けば。

 

うねる波は、大きく緩く、

はるかなる果てに眼をやれば、

そのあたり、霧が、かすか、

そこの上にも星多し。

 

日本海に面せる、

本州の北部、

その陸が、かかる夜にも、

眼に入る。

 

盛の上にも盛なる、

彼の處、

今、見るは、

長き陸、

 

北斗七星は、

此處にては、

尚燦爛、

明らかなり。

 

喜志に響く、

波の砕けて、

白く散る、

同じ時をくりかへす。

 

 

しゃれかうべ

 

秋風吹きてその音の、

さらさらと、枯れ草に鳴りて、

そのゆくへにも見ゆる野、

そこに一つのされ((ママ))こうべ。

白く晒れたるそれがあり。

 

誰のなごりをとどめたる、

あな哀れされこうべ、

弔ふ人の嘗て無く、

野末に年を経てぞ来し、

かくなりしそも人にして、

また人生にてありにけり。

 

夢と消えにしその人の、

生きたる時の思ひや思ひ、

人として思ひ悩みたり。

ああされこうべされこうべ、

語るものなく(もだ)したる、

はかなきもののきはみなれ。

 

 

孤客

 

我れは、

一つの存在。

 

自然と人生とに、

あって、

生くる身。

 

大空の下、

大地の上、

微小なるもの。

 

天涯の孤客たる、

感もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【解説】

露風は三鷹時代に、さまざまな形で詩稿を残している。それらの詩篇は順次、詩集に組み込まれていった。しかし、現在三鷹市が所蔵している資料は目次は存在しても、本文がなかったり、清書された本文の一部はあっても目次がなかったりして、大部分は不完全な状態である。それらの資料を整理検討した結果については、「幻の自選詩集」と題して『山本有三・三木露風展─『田園』に『未来』をたくして─』所収(山本有三記念館

2003年)において、概説しておいた。全体像についてはそれを見ていただくとして、本書においては、その中の最晩年に属すると思われる通巻シリーズを紹介することにした。通巻シリーズというのは、実は詩集の題名と目次のみが書き記されたもので、本文が見つかっていない。題は『三木露風詩集』とし、第五十五集から第八十八集まで、不連続に存在している。これらはすべて、詩篇の収録数を42に統一していること、同一のコクヨの便箋を使用していること、筆記用具、筆記様式の同一などの観点から、一定時期に作成されたと考えられる。ということは、目次製作時には該当作品群も手元にあった楼と推測されるのである。しかし、そのまとめられた詩篇が全く見つかっていないのは、不思議というほかない。そもそもこのように大量の詩篇が実際に作られたのだろうかという素朴な疑問さえ湧くところである。そこで、ノートをはじめとして原稿用紙の断片、商店などの包装紙、ちらし広告、受信封筒の裏面、わら半紙などに書かれた詩稿から目次に該当する作品を探し出して、詩集を復元する作業を試みた。その結果、比較的多くの作品がそろった詩集のうち、今回は数巻を選択し、そのあるべき姿の一端を明らかにした。

後の二つの詩集、『映像』、『象觀』は、それらとは別に「 nbr燕ノート」に清書されていて、機会があれば刊行されるべく用意されたものの一例である。これに類したノートはほかにもあり、そこに書き残された詩篇は、数百篇にもなろうという膨大な数である。彼は晩年の昭和33年頃新井寛が編集する雑誌『表象』(日本文学美術協会刊)の主要なメンバーになった。その縁で詩集刊行の話が持ち上がったようである。このことについて未発表のエッセイ「龍野まで」の末尾で「最近賛助会員になってゐる日本文学美術協会から氏が大正末期から最近まで書いた二百八十八の詩集を出版の話が持ちかけられゐる」という「播磨新聞」の記事(昭和34年1月1日)を引用していて、露風も大きな期待を寄せていたことをうかがわせるが、残念ながら実現の運びとならなかった。二百八十八集は大げさだとしても、八十八集と読みかえれば、先に示した数とくしくも一致するので、あるいはこの刊行のために清書を急いだのかもしれない。(福嶋朝治) 

7.露風の象徴主義と未来社の活動

 

 露風の説く象徴主義とは、自然と自分との関係をどのように捉えるかという問題に係わる。「冬夜手記」の中に「Body(肉体)の中に山川草木の気を観る者は象徴主義者なり」という一句がある。「山川草木の気」とは、たとえば春の季節に「永遠が付与する生命」を観、「悲しく花やかに幽邃な」秋の季節を洞察して、恍惚感におぼれる。そうした自然万物の持つ生命感を自分の内部にも認め、その気分を言葉で暗示するところに象徴詩が生まれるというのである。『白き手の猟人』の白眉とされる「現身」や「櫂」はこの理念による実践例である。蕪村は自然の現象から受ける表面的な感興に魅かれているが、芭蕉は自然の内部の不朽永遠の世界に眼を向けている。こうした露風の芭蕉観は、彼の象徴主義を理解する上で最良のテキストとなるだろう。

 露風は1914(大正3)年、彼の象徴主義詩論と詩の信奉者を集めて未来社を結成し、季刊雑誌「未来」を2月に創刊する。主な同人は川路柳虹、服部嘉香、山宮允、西条八十、柳沢健、灰野庄平、新城和一、山田耕筰であった。この内山宮、柳沢、新城、灰野は今の東京大学の英文科や仏文科などの学生であり、西条は早稲田大学の英文科の学生であった。それぞれが西欧の新しい文学運動に深い関心を持ち、「自ら象徴主義の闡明者並に実行者を以て任じていた」(山宮)。また、山宮が第3次『新思潮』の主要のメンバーであったために、両誌の関係は深く、露風の「女性」や「村々」に言及した芥川龍之介の「未来創刊号」批評などにその一端が示される。

 『未来』はいわば象徴主義運動のメッカとも言える地位を数年間占めることになる。

 なお、第3次「未来」の主な同人は喜志邦三、北村初雄、竹内勝太郎、霜田史光、二宮典美などであった。

8.露風の函館時代

 

 露風が最初に修道院を訪問したのは、1915(大正4)年のことである。このときは3週間滞在し、1917(大正6)年、再度訪問。この間の体験を随想「トラピスト修道院より」「トラピスト僧と愛の力」などで発表し、また詩集『良心』を刊行した。1919(大正8)年、3度目の訪問の際、講師の依頼を承諾し、翌年5月末に赴任する。

 こうした経過から察しられる通り、露風のカトリックへの回心は苦悩と熟慮の末の決断であった。『廃園』刊行の後彼は人生に対する深い厭世観から長い放浪生活を送った。それはまさに「求道の旅」であり、自己の再発見の旅であった。旅中彼は、沼津にキリスト教会を訪ね教理を学び、はたまた京都相国寺で僧房的な生活を送ったりしている。彼の心の中ではキリスト教と仏教のどちらの教えにすがるべきか、長い間の煩悶が続いていたことを知るのである。しかし度重なるトラピスト訪問によって得た修道院生活の印象と熱心な要請は、仏教徒としての障害を徐々に取り除くことになった。

 1924(大正13)年の6月まで、当初の予定の2倍の4年間に及んだ修道院での教師生活は、彼の生涯における唯一の定職経験であった。月給70円の支給を受け、神の恵みに感謝する日々は、たとえ詩壇での名声を犠牲にしても、彼の精神と肉体に好影響を与えたに違いない。また多くの児童と接したことは、彼が童謡を書く際に大変参考になったことでもあった。童謡集『真珠島』は児童との交流なくしては生み出し得なかったろう。また、滞在中の詩集としては『蘆間の幻影』、『修道院詩集第一巻 信仰の曙』などを刊行して文学と宗教の問題を提起した。

 修道院での思索と信仰の生活体験は、『修道院雑筆』『修道院生活』にまとめられ、作詩は修道院詩集第二輯にあたる『神と人』に収められ、さらに童謡集『お日さま』、歌集『トラピスト歌集』などが帰郷後2年間ほどに刊行された。

一方で、各地の教会からの招聘を受けて「宗教と文学」をテーマに巡講するなどしばらくは多忙な月日を過す。1927(昭和2)年ローマ教皇は、カトリックに対する教外者の理解に努めたことに対して聖墳墓騎士の称号などを贈った。

 

9.三鷹での詩作活動

 

 1929(昭和4)年11月、露風を顧問とした詩誌『高踏』が第10集をもって終刊します。これを期に露風の詩壇的な活動も終焉します。そのために「あれだけの大器もいまはどこかの郊外にしずまり切って」(室生犀星)暮らしているような印象を世間に持たれました。しかし、それはあくまでも皮相な見方であって、露風自身は、まったく以前と変わりなく旺盛な創作欲にかられていました。

 たしかに新たな詩集の刊行や文壇的活躍といっためざましい活動は見られませんでしたが、露風に関心を抱く者も眼は、総合雑誌だけに限ってみても、『現代』『文芸春秋』『雄弁』『新文明』などに発表された少なからぬ詩篇を見逃さなかったでしょう。しかもそれらは露風が日夜、行住坐臥制作した詩篇のほんの氷山の一角であったことも、既に周知の事実になろうとしています。

 

 


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