芸術とは目に見えるものを再現することではなく
目に見えないものを、見えるようにすることだ。
パウル・クレー 「創造的信条」
目 次
(1) 投稿時代 (2)初期短歌 (3)二十歳までの抒情詩 (4)自然主義詩 (5)口語自由詩の試み
(6)詩集『廃園』の抒情 (7)詩人の職分 (8)内なる自然の構築――白き手の猟人
(9)詩篇「現身」の象徴性 (10)芭蕉論 ()( ()(11) 豹変する自然 (12)自然観の変質 (13) 童謡 (14)誠の道
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(1) 投稿時代
露風の少年時代の俳句の会の記事が残っている。『良夜』という題で、三鷹市所蔵の露風資料の内の文献の一つ「切抜帳」に収められているが、全集第1巻「初期詩文集」にも収められている。明治36年9月とあるから、龍野中学1年の時の作である。露風は明治22年の6月生まれだから満14歳ということになる。
金風浙瀝として風物すべて蕭条、庭前白露団団として跫音喞々たり、吾れに詩なかるべけんや。
一夜、菫水が宅に会する者7人、霞日、松籟は共に姫路師範の人、三紅は早稲田大学の士也、嫦娥嬌然として桐梢に懸り、新茶緑り濃やかにして俳句を談じて愈々酣快言ふ可からず。
乃ち硯をよせて筆を噛めば、詩興湧然として良墨の香高し、余の面白しと思ひしを左に掲げつ。
と前書きして同人の作を9句紹介し、
駄作ばかりの詰らなき予の句を出さんにはあまりに恥しく漸くに苦心して三句だけ記るし見つ、あまりアツケなきに笑ひ玉ふ勿れ。
旅僧の峠へかゝる時雨かな
子狐の酒買ふて行く枯野哉
稲妻やつくねんとして石地蔵
柱頭の時鐘、已に十点を報ずれ共興未だ尽きず、月光水のごとく流れ入りて欄灯風に明また滅。
端近く出でゝ振仰ぐ空、銀漠雄大に尾を曳いて白露山頂流星一つ遠に落ちたり
揖保川の淙々の響、夜の帷幄を遠く破つて庭前虫声やうやく滋し。
と結んでいる。
露風が俳句や短歌、散文などを盛んに作るようになったのは、明治35年の春頃からのようである。彼の自伝である『我が歩める道』で、「高等小学に入った頃から、雑誌をよく読んだ。『少国民』『言文一致』と云ふ様な雑誌が鳴皐書院から出てゐた。私は其の二雑誌を特に愛読した。小学に在学した頃、此ニ雑誌に詩と文とを出して常に掲載されてゐた。」と述べている。『少国民』は明治36年1月に『言文一致』と改題している。36年4月以降、彼の投稿した散文がほぼ毎月のように『少国民』に掲載されている。次に引用するのは明治35年11月号に掲載された「車上の白雨」の一節である。露風は弟と別れた父が住んでいる神戸の家に訪れる。その途中の一こまである。
『アラツ降って来るぞッ!』誰れやらが恁う叫むだので、弗と振仰ぐと、成程、向ふの銀行らしい屋根の辺り、悪魔の様な一むれの黒雲が、むらむらと一仕事やつつけ様と言ふ有さま中々に凄まじい!『おい什麽やら来さうだぜ』酒屋の小僧が二人徳利さげてスタスタと走って行く。⋯―と見る間に、黒雲の神は見る見る至る所に、猿びを伸ばして、はては空一面に薄墨を流した様、市内は俄かにどよめきわたって、抜目のなき車夫らは、頻りに乗客を促して居る
題名の「白雨」は夕立のこと。蕪村の句に「白雨や草葉を掴む村雀」という有名な句がある。また蘇軾の詩の一句に「白雨跳珠乱入船」というのがある。露風が「夕立」でもなく「にわか雨」でもなく「白雨」を選んだのは、こうした詩語、俳語を意識したためであろうと推察される。俄かに襲い掛かる黒雲に慌てふためく路上の人々やこれ幸いと客を呼ぶ車夫の情景が、巧みに描かれている一文である。特に注意されるのは、入道雲がたちます空を覆うさまを「至る所に猿臂を伸ばして」と大人びたませた表現をしていることである。
彼はそれ以外にも『中学文壇』などにも投稿し、36年中学に進学すると、『文芸界』、『文庫』や『新声』にも投稿の場を広げていった。
一方で彼は「白紫会」「緋桜会」「柿栗会」などの文学会を主宰する。「白紫会」は、家森氏の『若き日の三木露風』によれば、初めは主に士族屋敷の少年たちの俳句を中心とする集まりであったが、のちには詩歌も盛んに作るようになり、中学進学を機に広く竜野中学の同好の士を迎え入れ、会の名も「緋桜会」と改めた。俳句中心の会合をも存続し、これを「柿栗会」と命名した。そして彼らの散文や詩歌は露風によって「姫路新聞」や「鷺城新聞」に盛んに投稿された。
冒頭に掲げた「良夜」はその投稿の一つではなかっただろうか。「良夜」は秋の代表的な季語で、十五夜のことである。露風たちもこの夜、句会を催したのでのであろう。「金風浙瀝」「庭前白露」「跫音喞々」など4字句をちりばめた堂々たる美文調の候文は、この年齢にしてはずいぶん凝った感じを受けるが、露風はこの語句と文体をどこで習得したのだろうか。
一つとして考えられるのは、彼の家庭環境である。彼は幼少時に父母が離婚し、祖父の家に預けられた。祖父制は龍野藩の奉行を務めた武士であったが、維新後は九十四国立銀行頭取、竜野町長を歴任した町の名士であった。露風は後年「祖父のおもかげ」という回想記の中で次のように述べている。
物心つきてより我は書を読みふけりぬ。倉の小箪笥に父君の蔵し給ひし書物の中よりとりいでて馬琴の八犬伝など読めり、そのほか読み尽くしぬ。ただ触ることのなら(でき)ぬものは祖父君の傍らなる資治通鑑、宋朝通観などの文字記されたる書庫なりき、われはその中に梁川星厳詩集をとり出して読めり。浪速橋上の詩などありたりと覚ゆ。写本にして朱点を入れられたり、今は如何にせし失くなりたるは惜し。祖父は時々詩物語したまひぬ。祖父は君公の傍にありて大槻盤渓、梁川星厳、斉藤拙堂などより詩文を学びぬ。ある時我に言ひたまはく拙堂先生は言葉も多く文調華麗なり、星厳先生はさにあらず言葉もむつかしからず文も飾りたまはぬが心幽に情け深しと、名匠とすべきは星厳先生ならむと。
露風は登校前に従兄らとともに、祖父から四書五経の素読を課されていたが、さらに江戸時代の漢詩文にも接していたのである。星厳は天保3年に亡くなっているが、天保12年には星厳集26巻が一括刊行されているほどの著名な漢詩人であった。「星厳自身の詩も、唐詩尊重とはいいながらも、盛唐まではさかのぼらず、中晩唐にとどまっていたといわれ、古詩よりも律詩、絶句の近体にすぐれているとされる。」(入谷仙介 『江戸詩人選集』第8巻 岩波書店 1990)このように彼の詩の傾向を述べたうえで、星厳の用語法の特徴として「好んで用例の少ない字(僻字)を用いるくせがあった」点を挙げている。
露風もこれに倣ったというのではないだろうが、「良夜」の用語例を見ると、随所に難解な熟語が用いられている。金風浙瀝、跫音喞々、嫦娥嬌然、淙々の響、夜の帷幄などである。これらの美辞麗句をちりばめた文章が年少の手になるものとは、読者は思ってもみなかったに相違ない。
露風は、この頃はもっぱら少年投稿雑誌『言文一致』の熱心な投稿者の一人で、俳句の外にも互報欄、文壇欄、新体詩欄、月旦欄、美文欄、などに36年2月から12月まで12回掲載されている。それらの文を見ると、今日のわれわれには、随分難しいと思われる漢語が数多く使われているのに驚かされる。たとえば遉に、甚麼、這麼、恁麼、什麼、日外、遮莫などの副詞や呶々する、加饗する、鏘とす、侫す、唾手するなどの動詞である。また、紅噋の東天に沖する、侃々の論諤々の弁、閴寥たる家内、紅塵に跼蹐する、炳然たる金箭などの漢語使用も随所に見られる。これを若者特有の衒気と考えることもできようが、露風の場合は幼少より培われた漢詩文の素養の影響と考えたほうがふさわしいように思う。
そして中学に入ると露風の読書範囲はさらに拡大して、「文庫」「新声」以外にも『文芸界』『文芸倶楽部』『新小説』など当代の文芸雑誌までも購読するようになる。こうした旺盛な読書欲の結果が彼の語彙習得の糧となったとも考えられる。使用された語句のうち、たとえば「さすがに」は辞書をひらけば「遉に」「さもあらばあれ」には「遮莫」という漢字が示されているが、「いつぞや」のような場合は、「日外」という漢字は示されないので、露風はどこかで漢和辞書をひも解き、よみを習得していたことになる。「這麼」(こんな)についても同様であろう。また「呶々するの愚」「閴寥たる家内」などの言い回しも彼の広範な読書により習得したものであろう。この頃の露風は俳句や短歌もさることながら、むしろ小説を耽読していた形跡がある。その証拠を次のような一文に見ることができる。
荷風の『夢の女』が出た。(略)一躰に文章が艶麗で而かも其筆に熱情の籠って居るのは、自分をして洵に面白く読ませたゆえんで有らう。(略)荷風の筆が他の作家とは違って、一種独特の妙致を備へるに至っては、自分の大に渠れに嘱望して居る所なので、事に依れば、春葉、魯庵の手合に比肩して決して退けを取るものではないと断言するに蹰躇しない一人で有る。此篇を読むだ自分は先きに於ける『地獄の花』とは、今一段の進歩をなせるの余りに早きに驚かずに居られなかった。(誤植などは改めた)
これは明治36年8月1日号の『言文一致』に掲載された文芸時評の一節である。彼はまだ中学に入って数か月にもなっていなかった。『地獄の花』は35年9月の刊行、『夢の女』は36年5月の刊行である。露風はともに単行本を読んでいるようだ。
以上見てきたように、少年時代の露風は、俳句や短歌に限らず、幅広く文芸批評や日常生活を主題とした散文にも強い関心を懐いていたようである。そして俳句や短歌よりも批評文などに彼の文才は発揮されたように思われる。のちに彼は俳句や短歌を棄てて詩作の道を歩むのであるが、初期の抒情小曲を例外として、思索的、観念的な象徴詩を作るようになったのは、若山牧水や北原白秋のような抒情的感性を素質として持ち合わせていなかったためではないかと推察される。
西條八十が露風の門をたたいたのは、彼の詩作品よりも詩論に敬服したからだと語っていたのはその一つの証左といえるだろう。露風の全集全3巻に占める試論、詩話の多さは、近代詩人の 中でも類をみない。ほかにも宗教論、文化論に至るまで広範囲の論評があり、それらを読むといかに彼が批評精神が旺盛であったかが分かるのである。
(2) 初期短歌
『三木露風全集第一巻』の「初期詩文集」によれば、露風の最初期の短歌は、『中学世界』の明治36年3
月1日発行の6巻3号に掲載された「一人行く谷あひの道に日は暮れて狭きみ空に星一つ出でぬ」である.。
続いて3月15日発行の『言文一致』3月15日号には「あまたたび羽ばたきなして大鷲のみ空仰ぎつ飛び
たたんとす」が掲載されている。
この年の4月に露風は龍野中学に進学する。満14歳である。これより前、短歌中心の緋桜会が結成され
、ようやく露風の関心は俳句から短歌に移行し始めた。「一人行く」の歌は散文的で説明的な韻律がたどた
どしく、いかにも短歌としては未熟な作である。また「あまたたび」の歌に込められた寓意は、意気軒高たる露
風の高い雄志をうたったものであろう。
江を渡る雁の一つら声更けて蘆間にちさき水なみの音
うない児が歌うたひつつ紅葉する道踏みて行く奥なつかしき
絵だくみの仮のすまゐの侘しげに小窓に白う萩乱れたり
杖つきて渡守呼ぶ旅僧のころもの袖に秋の風吹く
行く船の遠くかすかに見えずなりこめし狭霧に夕日さし添ふ
自伝『我が歩める道』に、「明治34年9月に姫路新聞に出てゐる」歌として18首を掲げている。そのうちの
5首を掲げた。家森長治郎氏によれば、この掲載年月は誤りで明治36年の作であろうと推定している。根拠
として「『三木露風詩集』のあとがきで明治36年は文を多く作り、又、詩作や、短歌や俳句の吟詠が多かった
。其れ等の作品は、姫路市から出てゐた姫路新聞に掲げられた」と述べていることや作品の完成度などを挙
げている。実はこれらの作品は全集第1巻「初期詩文集」の末尾に収録された「掲載誌(紙)も発表年月も記
入されていない作品」の中に「うた袋」「短歌累々」という題の短歌があり、そこにこれらの歌が含まれている
。これらはみな明治36年作の作品と思われるので、多分この短歌も36年、それも歌の内容から見て、秋に
制作されたものとしていいだろう。なお、「杖つきて」の歌は、『言文一致』明治36年12月1日15年15号にも
採録されている。
作品の内容は、家森氏が論じているように、かなり完成度が高くなっている。秋の情景が細やかに描き出
されていて、作者の鋭敏な感性が読み取れる詠草である。万葉集を手本にしたような情景描写を露風はこ
の頃、志したように感じ取られる。その自然諷詠は尾上柴舟の叙景精神が影響しているかもしれない。
あさあけや森の女神がとき髪の簪すべりて咲くか白百合(夢野)
白藤の小傘にふるる下道や美しき子に昼の雨ふる(夢野)
髪洗ふ女神が茲にわすれたる細櫛と見む湖のゆふづき(吉備路)
君待つと只あくがれて立ち出でし栗の花散る宵月夜かな(吉備路)
新しき恋天に得て歓楽の今どよみ来る春の花潮(花潮)
母恋ふてゆふべ戸に靠る若き子が愁いの袖よ秋を得耐えぬ(なさけ)
故郷の東へ雲は流れつつ吉備寒うして朝、霰ふる(寂寥)
尖りたる紅筆くだく京の子の鬢のほつれに春まだ寒き(寂寥)
吾や七つ母と添寝の夢や夢十とせは情け知らずに過ぎぬ(舞ぎぬ)
青風のさやぎ涼しき森蔭や人の集読むまろび寝もよし(舞ぎぬ)
処女詩歌集『夏姫』の短歌113首のうちから10首を掲げた。『夏姫』は明治38年7月自費出版された。露
風は詩や短歌の創作に没頭するあまり、学業が疎かになり、落第を心配した父の計らいで、明治37年11月
、岡山県閑谷の私立中学閑谷黌に転入学した。岡山での生活は、さらに奔放を極め、文学活動はさらに活
発になった。そしてついに38年夏、退学して上京することを決意する。『夏姫』は閑谷を去る記念として自費
出版したものである。短歌のほかに詩10篇が収められている。
家森氏の調査によれば、そのうち初出誌が判明しているのは30首で、もっとも早期の歌は37年10月15
日発行の『文庫』27巻2号に掲載された「百合にねし其夜ひと夜の夢さめてちひさき星の恋知り得たり」など
の3首であり、もっとも新しい作品は38年8月5日発行の『白虹』2巻2号誌上の「あるときは悲しと泣きし人や
人見ながら恋をうばひて行くか」ほか2首であるという。このことから『夏姫』所収の作品の大部分は閑谷黌
時代のものと考えられるとしている。
露風が『文庫』の投稿欄に登場するのは、明治36年11月3日34巻4号が初めてである。それ以後彼はも
っぱら『文庫』の熱心な投稿者となり、投稿欄の常連の一人になった。『白虹』は関西中学出身の入沢涼月
が編集発行していた地方文芸誌である。『白虹』とのかかわりは彼が閑谷黌に転校してからだから、期間とし
ては短かったが同人たちとの交流は親密なものがあった。そのほかに2、3の同人誌への投稿があるが、全
体として30首というのは、全体の30パーセントにも満たない。ということは『夏姫』の編集にあたって必ずしも
掲載歌を優先するという意識はなかったということになるかもしれない。
閑谷での生活環境は龍野での生活と比べようもないほど、激変したようである。そのことは当然、読む歌の
内容とともに歌いぶりにも反映していることは、掲歌10篇を一読しただ けでも納得できるだろう。その歌わ
れた主題は、「夢野」「吉備路」「なさけ」「花潮」「寂寥「舞ぎぬ」という表題名によくあらわれている。<あさあ
けや>〈髪洗ふ〉などの作にみるように、彼の自然観照の態度は閑谷に来てすっかり様変わりして、外界と
のかかわりは幻想的、夢幻的で浪漫的な色彩を強めたことは注目に値する。その一方で<君待つと><新
しき>など恋心を抒情的に歌うような新境地への進出が図られているようになったことも顕著な特徴である。
その背景には、史実として彼の下宿の近くの農家兼商店の娘、太田美代子との恋愛があったと家森氏は論
じている。この体験が影響してこの時期の彼が明星調の技法を意識的に模倣したように思われる。
『夏姫』の批評を乞われた氷簾(松原至文)は『文庫』明治38年9月15日号で、「晶子血、柴舟血、薫園血
を混じへ」ていて、「一家特得(ママ)の露風型」の歌風がないと苦言を呈している。そのうえで、「濫りにその
素肌を露さずしてよく靚装を整へ得るの才」に関しては高く評価している。そして<髪洗ふ>の歌を例にして
露風の歌には「つつましき彫琢」がなされていると称賛している。要するに「骨太からざれども、肉甚だ豊か」
でやさしい歌を美しく巧みに詠んでいる点が露風の本来の歌風であるとして、この歩調を乱すことなく精進す
ることを、切望している。この歌興は<白藤や><青風の>などにも共通してみられる露風の本来的な傾向
であろうと思われる。
明治38年8月、念願の上京を果たした露風は、有本芳水とともにその年の暮れに正富汪洋や前田夕暮の
斡旋で車前草社に参加する。車前草社は『新声』歌壇に拠っていた正富汪洋、前田夕暮、若山牧水が柴舟
を中心に、明治38年夏ころに結成された短歌会である。その詠草は最初「車前草社詩草」として別欄掲載さ
れた。のち「車前草社詩稿」と名称を変え明治40年5月まで掲載は続けられた。その詩稿欄に露風は明治3
9年1月1日号から6月1日号まで掲載し、新進歌人の一人として注目された。
この半年間に寄稿した露風の詠草は、50首足らずである。その中から数首を次に抄出してみる。
こもり沼や太古の精が永劫にぬる守歌と冬のあめ降る
たそがれは湖の底より来るらし十歩をへだつ君とわれとに
悲しき日雪国なれば日おくれてぬれてとどきし母の文かな
ああ君は別るるのちの悲みを会ふのはじめに思へと強ふる
寂寥ははなるるまなくしたしみて胸に住まひぬ影かのやうに
暗闇に落ちたる夢のおもひ出をさぐるに似たるこの悲しみや
母こひし竹の花咲く山の日はうづら追ひたるふるさとの家
前田夕暮は露風の相聞歌について「牧水の情緒的、汪洋の体臭的なのに比して心理的だった」と述べて
いるが、残念ながらこれらの歌にみられるように、『夏姫』の世界を進展させもせず、深化させもしなかった。
露風はこの5月号への寄稿を最後に、車前草社を脱退した。理由について露風は『我が歩める道』で「思ふ
ところあって」と明言を避けているが、夕暮は「明治回想記」で、発表順位や採択歌数、それと柴舟の会員に
対する処遇などに対して、露風が不平不満を抱いたと述べ、「僕のこんな秀歌をこんなところに押し込めると
は尾上氏もひどい」というような恨言を夕暮に向かって放ったと記している。確かに露風の歌が巻頭を飾るこ
とは一度もなかった。しかし客観的に見て露風の作品は、すでに独自の歌風を持って新進歌人として頭角を
現していた牧水や夕暮の作品に比べて優れているとは、いえない。結局、露風は夕暮の言を借りれば「歌人
としての不抜の信念を持たなかった」という一言に尽きるかもしれない。
葛飾やくろ土凍る菜畑の青きがつづくうえに雪降る
こぼれにし麦が芽をふく米倉のかげに残れる春の雪かな
恋はかく寂しきものかなやましと涙するなりうら若き子は
昼の月背丈ばかりの夏草の中に相見し日を思ふかな
空垂れて涙しぬべき灰色の海はけぶりて夕べとなりぬ
春の雲ふるさと出づる一ひらの影を思ひぬ山ざくら花
なつかしき人待つここち暮れの戸にたたづみて見つ白梅の花
紅き芽は伸びぬ日毎に名も知らぬ野の草なれど花待ちて見む
前の6首は明治40年2月1日『新声』16編2号、後の2首は同じ月の『婦人世界』2巻2号に発表したもので
ある。
露風は、39年5月ころ、4校目に編入した水道橋際の商業学校から退学処分を受け、そのことが親の知る
ところとなり、仕送りが絶たれる。そのため「極めて境遇は惨苦に遭遇して苦しめられ、生活は危急を告げた」
と翌年7月の内海信之に告白しているほどの惨状を呈した。そうした環境の激変は当然彼の創作活動にも影
を落として、ここに掲げた歌はどれも、車前草歌稿と比較して、繊細な自然描写の背後に作者の深い悲痛の
叫びが聞こえてくるように思われる。このような象徴的な作風に深く沈潜したら、新たな地平が開かれたかも
しれないと思うと、彼がこれを最後に歌壇を去ったことは残念である。しかし露風はこのころ短歌の形式に窮
屈で、飽き足らない思いを強く懐いていたようで、これを最後に詩作に専念するようになった。
(3) 二十歳までの抒情詩
講談社版年譜(『日本現代文学全集第38巻』)は「生田長江推薦で『芸苑』に発表するようになり一途に
詩を志す」と記す。明治40年1月のことである。事実、推定1月の小木曽旭晃当ての書簡に照らしても、「本
年は小弟も詩壇に多少動くつもりに御座候」とあって、「『婦人世界』『新声』『青年』『芸苑』『向日葵』『健全』
その他の雑誌に大分書き申候」と報じている。これらのうち特に注目されるのは『芸苑』への掲載である。『
芸苑』2月号は露風の作品「高麗琴」の総題のもと「雨ふる日」「木曽川」「海はわが恋」「闇」「冷笑」の5篇を
巻頭4頁にわたって掲げた。
『芸苑』は「芸術各般の考究を事とし、併せて趣味の改善を目的とし」、「西欧詩文の評論、翻訳叙説を特
色とし」(芸苑に題す)て、上田敏によって再興された文学美術雑誌であった。主催の上田敏が東京帝大で
英文学を講じていた関係で、門下生の生田長江、森田草平らが加わり、ほかに『文学界』時代の平田禿木、
島崎藤村、馬場孤蝶や明星派の森鴎外、与謝野寛らも寄稿するといった具合で、総じて審美主義的で高雅
高踏的な傾向を特徴とした高級な文芸美術雑誌として知られていた。生田長江は明治39年の秋頃からはこ
の雑誌の編集を任されていた。露風の詩が特別待遇で掲載されたのは、長江の出身が鳥取県で、露風の
母親の養父である堀正が寮長を務めていた鳥取県の東京学寮久松学舎に一時入寮した縁によるものであ
った。理由はともあれ、露風にとってこのような晴れの舞台を提供されたことは、望外の僥倖であったと言わ
ざるを得ない。
例えば『早稲田文学』では3月号の時評で「近来俄かに異彩を放ち始めたのは三木露風氏である。殊に『
高麗琴』に収めた『雨ふる日』以下の5篇は最も明らかに氏の進境を示して居る。」と述べ、「今の詩壇にあり
て大いに注目すべき新進作家の一人である」と称賛している。確かに前年読売新聞に掲載された作品は、ど
れも薄田泣菫の影響下に作られたもので、全くの習作の域をでるものではなかった。しかし「雨ふる日」など
をみると、清新な抒情が横溢していて先人の影響はほとんど感じさせない新境地を印象付けている。ここに
は泣菫のような古風な用語法もなければ蒲原有明のような晦渋な象徴的技法も見られない。
「雨ふる日」は、内容的には1連10行で4連からなる抒情詩で、1行5音7音の定型詩である。次に掲げる
のはその2連と4連である。
ああこの日遠里越えて
畠中の小径いくつか
行き、またも堤をたどる
旅人は若きこころに
ふるさとを思ひうかべぬ。
あえかなる妻のゑまひは
みどり野の樹叢(こむら)を透きて
円くさす日光(ひざし)のさまと
濡(ひ)ぢつつも急ぐ海路(うみじ)を
日はさなか雨こそ霽(は)るれ。
ああ生の歓喜(よろこび)みてる
あたらしき生命の薫ゆり
触れやすき旅人の胸に
美(うま)し鳥ひと日は棲みて
黄金色、枝もたわわに
『追憶』(おもひで)のさは熟(う)む果実(このみ)
啄(くち)ばみて巣をこそつくれ、
さなり。今虹のごとくに
五月野のおもひは白み
いつしかに眼うるみぬ
変わりやすい五月雨が降る野道を旅する若者が、甘美な追想に浸る情景をうたったものである。この外光
的でのびやかな詩の境地は、有明や泣菫の老成した窮屈な詩の世界を見慣れていた詩壇に新鮮な印象を
もたらしたことだろう。
三好達治はこうした新傾向の詩について、「前代の詩壇が、やや凝りすぎ、考えすぎに、老けすぎ観があっ
たのに比べますと、ここにきてもう一度とりもどされた青春が、自由に、のびらかに、その年齢の若者どもらし
い気まぐれもそのままにとりいれて、とまれ楽しげに歌い直された観がある」と論じている。(「現代詩概観」『
日本の詩歌』毎日新聞社昭和39年刊所収)
「雨ふる日」に用いられている「あえかなる妻のゑまひは みどり野の樹叢を透きて 円くさす日光のさまと」
のイメージは、泣菫の「ひとづま」の冒頭「あえかなる笑(えみ)や、濃青の天つそら、君が眼ざしの日のぬる
み」にヒントを得たものであろう。しかしこの「あえかなる優目見」は表現主体を「『接吻』のうまし香」に陶酔さ
せたのも束の間、「あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に、日曇(ひなぐ)もり」果敢なく消え失せてしまう。そう
した「歓喜」と「悲愁」を表現主体にもたらす役割を担っている点で、人妻の人格の象徴として詩全体を支配し
ているキーワードとなっているのである。それに比べれば、「雨ふる日」における「円くさす日ざし」のような妻
のゑまひ」は、単なる比喩的なはたらきとして部分的な役割をしか果たしていないのである。このことはつま
りは両者の詩の主題にかかわる問題であり、「雨ふる日」は、最後の節にみられるように、若者の生命の歓
喜を歌うことにあったのに反し、「ひとづま」は、追懐の索漠たる嘆きを歌っているのである。三好は白秋につ
いて「『邪宗門』にきてぐんと明るくはなやかに、若々しく、気軽に、詩中の言葉づかいが大変身軽になりまし
た。前者にあった憂鬱と沈潜と思想的苦悩の深みとは、ここでは一部分表面に受け継がれた形であっても、
内部のしんそこの詩的立場は、はるかに享楽的楽天的な気分のものに置き代えられました。」と述べている
が、露風もまた主題とは直接かかわりのない「言葉づかい」をいかに自分の詩の文脈の中に、移植し取り込
むかに腐心したのであった。
このように用語法一つとっても、三好が論じているように新旧の詩風の特徴の乖離は歴然としていた。それ
にしても「雨ふる日」では、若者の情感はしめやかで幽かな五月の野原に開放され、明るく快い自然と調和し
て若者特有の浪漫的で感傷的な雰囲気を漂わせている点で、新鮮な印象を詩界にもたらしたのも事実であ
った。
露風はその後『芸苑』3月号から4月号まで「五月の空」(のち南方の五月と改題)「古径」「水」など長短10
篇の抒情詩を発表して、自己の抒情の定着を試みる。
勢(きほ)ひかに、ふく芽はつはつ
野の胸に
きざしぬ、こころ。
こは若き希求(きぐ)か、み空をうちあふぎ
青き芽ひらく葉の蕾
ああ野にも
「命」はかよへ。 (芽)
「追憶(おもひで)」のああいたましき
あとを見よ、日々に壊(く)えつつ
ほろびゆく「愛」の胸には
「悲愁(かなしび)」の小草ぞしげれ。 (古径<ふるみち>)
『芸苑』4月号に発表された小曲の後半部分である。前者の生命観は心のそれに通い、後者の荒涼たる情
景は失われた愛の痛ましい「追憶」を表象する。このような自然の生命に仮託して自己の生命感情を重ね合
わせる表現方法は、いずれ露風の詩法の中核を占めることになるのだが、この方法は有機的なものの美の
うちに自己の満足を見出そうとする感情移入衝動の作用であると説くヴオリンゲルを想起させる。彼は『抽
と感情移入』(草薙正夫訳 岩波書店 1953年刊)で次のように感情移入の概念を定義している。
このような種類の美的体験の特徴を極めて簡単に言い表すと、美的享受は客観化された自己享受である
ということになるのである。美的に享受するということは、私とは異なった或る感覚的対象のうちにおいて私
自身を享受すること、即ちかかる対象のうちへ私自身を移入することに他ならない。私が対象のうちへ移入
するところものは極一般的にいうと生命である。
「ああ生命の歓喜みてる 新しき生命の薫ゆり」という「雨ふる日」の詩句は、五月という季節の自然の生命
力に投入された自己の内部生命であった。「胸」という語が「芽」においては「若き希求」のきざす場として、ま
た「古径」においては失恋の「悲愁」から生まれる荒廃的気分の増大する場として、対象化されているのであ
る。そういう意味において「芽」や「古径」は「雨ふる日」の技法の延長であった。それは単に自己の情緒なり
気分の比喩的表現であるのではない。自己と外界とは画然と区別されて認識されているのではなく、自我の
対立性の意識を微弱化させることで、外界に融合するところから生まれる表現方法であると考えられるので
ある。こうした自我意識の処理も感情移入衝動の発現である。
「廿歳までの抒情詩」には、そのほかにも「ふるさとの」「水」「晴れ間」など、今日でも愛読されている明治4
0年の制作になる短詩が収められており、それらは露風の青春時代の純粋無垢の情調の記念碑的な作品と
もなっていて、まさに露風の抒情小曲集ともいうべき作品群である。
「水」は、次のような小品である。
山上の
おちくぼに
たたへたる
ふるきみず
あまぐもを
うかべたり
いつよりか
かくたたへ
いつまたも
乾ぬべきや
山上の
ああ水よ
長詩が泣菫・有明臭をにおわせてともすれば不純な印象を与えているのに比して、かえって単純明快に自
己のナイーブな情調を掬い上げていて気負いがない佳品である。
露風は中学時代の一時を過ごした閑谷の山中の森の散策を追想し、「森の中には池があった。其の池は
澄み切ってゐた。静かであるが寂しくはなかった。永久に湛へてゐる水であるやうにその静かさが思はれた
。しかも永久に若い、自然を守ってゐるかのやうであった。」と『我が歩める道』に記している。森に囲まれた
池が悠久の時間を底に沈め、天空を飲み込んでいるたたずまいに作者の詠嘆の根源があるとすれば、それ
は自然の生命力に対する神秘的な憧憬を詠ったものであるといえるだろう。その感動は「ああ水よ」に遺憾
なく込められている。
(4)自然主義詩
明治40年6月(推定)の手紙で、郷里にあって不遇を託つ友人の内海泡沫に対し、苦痛
懊悩の叫びはそのまま光輝ある熱情の現れであると慰撫激励した露風は、続けて、芸術はそも
そも芸術家の苦心惨苦の結晶であって「われ等が詩に対するの苦痛は先づ何者の痛みよりも超
絶する」ものであると述べ、特に現今の詩界に生まれ、新たな詩風に展開しようと望むなら必
ず一度は迷い煩うことをまぬがれることはできないといい、自己の体験をつづる。
小生の如き極めて境遇は惨苦に遭遇して苦しめられたりき。されど学費は停止せられたり
と雖も、岐阜地方や小新聞に執筆する迄生活の危急は告げたりと雖も、甲斐信濃越後に放浪し
て後山寺にあること三日、失意の情止みがたく憤恨の極死を決したる事ありしと雖も、常に不
遇に打勝ち生活に打勝ち得たる事、これ皆芸術の憧憬やみがたきものありしがためなり。(『
露風全集』第2巻 内海宛書簡 整理番号10)
「我性過激に走りて時に熱語を放ち」と自省している通りの過大な表現に満ちた内容であるが
、親から学費を止められたのちの生活の困苦を辛うじて克服し、将来に希望を見出した現在の
心境が、赤裸々に告白されている内容である。39年の後半は彼にとってまさに激動の時期で
あった。怠学のため中学を退学させられた彼は、親の勘気を被って仕送りを絶たれてしまった
。そのために一時岐阜の『山鳩』発行者の小木曽修二を頼り、大垣の美濃新聞の記者になり自
活の道を求めたこともあった。しかしそれも長くは続かず、東京に舞い戻った彼は小説家の三
島霜川の借家に転がり込んで、詩作に専念する日々を送っていた。そうした逆境に転機が訪れ
たのが、年が明けて上田敏が主宰する『芸苑』に寄稿する機会を得たことである。幸いそこに
発表した諸作品は、詩壇の好評を博し、一躍新進詩人のひとりとして注目を浴びることになっ
た。さらに3月には早稲田大学の島村抱月の肝いりで設立された早稲田詩社に加盟して新たな
発表の場を広げるようになった。
この結社は早稲田大学英文科の出身者と学生を中心に結成された。相馬御風、人見東明、加藤
介春、野口雨情らが名を連ねていた。露風は特に早稲田とは関係がなかったが、友人の御風と
東明に誘われて加わったのである。しかし5月にはこの加盟が縁で大学の高等予科に入学を許
可されている。抱月の特別の計らいが働いたものと思われる。
詩社設立の趣旨は『早稲田文学』4月号の文芸消息欄の記事によれば、「沈滞せる現下の詩
壇に意義ある新運動を試み」ることであった。具体的には抱月の「一夕文話」(『文章世界』
明治39年6月号)で説いた言文一致詩論の実践であり、彼が抱いていた自然主義詩の樹立と
いう遠大な詩壇改革の理想の実現であった。そのためには発表の場として『早稲田文学』の一
部を貸してもいいというのが抱月の提案であった。「文芸消息」の伝える決議は、まさにその
呼びかけに応じたものであった。
介春によれば、自然主義の洗礼を受けた詩は「客観的なもの、美ならざるもの、醜なるもの
にもあり、市井の巷や日常茶飯の間にも」求めるべきものであった。そのためにそれは「主観
的、情熱的、感傷的で、詩は清く美しいもの」でなければ詩とされなかつた『明星』を中心と
する「星菫派」と真っ向から対立する詩観であった。具体的に言えば「汚い見世物小屋や陰惨
な老爺の生活、薄気味悪い火葬場や墓地など、今までは全然忌み嫌はれた方面にも求められた
」。また形式においても「定型律詩に対し、もっと自由な、制約や拘束のない詩形が求められ
た」(「早稲田詩社と自由詩社」 『日本文学講座』第9巻 改造社刊 昭和9年)し、詩語
に関しても「我々が日常使用している生きた言葉の中にも美があり、詩がある筈だ。それらを
発見して詩語や詩境を豊かにしたい」(人見東明 「明治詩壇の一角」(『自然と印象』復刻
)昭和33年 昭和女子大光葉会刊)というのが彼らの運動の目標であった。
介春の回想によれば、「当時の早稲田文学といへば、島村先生が帰朝後再興されたもので非
常な勢力があり、文壇の登竜門としてこれに作品の出ることは至大の幸運と名誉を担って一躍
天下の詩人になれるとさへ観られてゐた」という。
露風の先に引用した回顧には、『芸苑』に続き、そうした権威のある早稲田詩社の仲間入り
を果たしたことによって生まれた安堵と自負の想いが込められているように思われる。
同人の作品は早速『早稲田文学』の5月号に発表された。「不安」(介春)、「村童小唄(雨
情)、「姉」(東明)、「雑居」(御風)、それと露風の「棺」であった。介春は街道の物乞
いの老人を、雨情は村の娘を、東明は嫁入りした姉を、御風は巷路の八百屋や魚屋の店先を、
露風は街道沿いの桶屋を詩材に選んでいるが、いずれも日常卑近な情景が客観的、写実的に描
かれている点で従来の美の規範では律することができない新領域を切り開いている内容のもの
であった。しかしながらここには抱月が提唱した言文一致詩は実現しておらず、詩語、詩形は
旧態依然たるもので、五七調か七五調の伝統的な音律を用いた文語定型詩であった。露風の「
棺」も例外ではなかった。
その風の黄なる埃の
村はづれ、橋のとどろき
列並めし牛曳車
懶げに獣は喘ぎ
過ぎにける其れも一時
ふとまたも真昼の「寂寞(しじま)」
こともなく近づく「畏怖(おそれ)」。
街道は光ぞ白め。
かかる時暑き屋並みの
片隅に棺うつ音、
槌の音、つとこそ起れ——
かたかたと箍の輪ひびき
またうごく右へ左へ、
槌とれる男は黙し
この日また棺を製る。
棟の下、風も通はず。
(7節のうちの第2,3節)
まず真夏真昼のけだるい街道風景が描写され、次に長屋つづきの一隅の桶屋に焦点が合わさ
れる。この作品を読んですぐに想起されるのは白秋が前年10月『明星』に発表した「正午」
である。
河岸なみは赤き煉瓦家。
牢獄めく工場の奥ゆ
印刷の響きたまたま
薄鉄葉(ブリキ)切る鋏の音と
棺うつ槌と、鑢と、
ものうげにまじりきこえぬ。
恐ろしき沈黙ふたたび
酷熱の日ざしにただれ
ぺんき塗褪めし看板
白秋の「恐ろしき沈黙ふたたび」や「棺うつ槌」が露風では「ふとまたも真昼の寂莫」「近
づく畏怖」「棺うつ音」など酷似した表現が多く使われ、異なる点と言えば白秋が河岸なみの
情景を描いているのに対して露風は田舎の街道筋の情景に焦点を絞っている点くらいである。
興味深いのは、どちらも孟夏白日の恐怖を主題していることである。この点に関しては、露風
が白秋の真似をしたというのではなく、両者の詩の背後に『海潮音』の中のルコント・ド・リ
イルの「真昼」の存在を無視するわけにはいかない。上田敏による訳詩は、
「夏」帝の「真昼時」は、大野が原に広ごりて
白銀色の布引に、青天くだし天降しぬ。
寂たるよもの光景かな。
に始まる1連4行、8連の詩で、「光明道」の涅槃の境地を主題にしている。この訳詩はそ
のほかにも泣菫の「日ざかり」や蒲原有明の「夏の歌」にも影響を及ぼしていて、白秋も露風
もそれに倣ったといえなくもないのである。
その4者4様の受容の実態については、今は深入りしない。(拙書 『三木露風』1985年 教
育出版センター刊参照)ただ一つだけ指摘しておきたいのは、露風の場合、自分が作った棺を
守ってゆく葬列を幻想する場面を挿入している手法に独自の工夫が施されていることである。
露風は6月末には神戸の父の家で病気療養のために滞在し、そのまま夏休み明けまで上京しな
かった。「上京は又々のびたり。学校は9月10日より開始なれば今より上京しても所詮熱鬧に
苦めらるるに過ぎざれば8月末迄は当地或は郷国にありて心静かに精神を養はんと決心せり。
」と7月ころの手紙で内海に記しているが、東明あてと思われる『文庫』」7月15日号掲載
の書簡には「僕は今のところ元気消滅の態」で「詩は一つも作らない、いや作れない」と嘆い
ている所を見るとかなり肉体的にも精神的にも衰弱していた様子がうかがえる。大学の方には
診断書を提出したようだが、9月上旬新進作家の三島霜川の家に居候することが決まり上京し
てからも学校にも出ず、終日家に閉じこもっているような状態が続いているような始末で、9
月下旬には退学処分になってしまった。それでも詩社との関係は維持されて『早稲田文学』1
0月号には「その夜」「晴間」「心の泉」を寄せている。その前にも7月号に「愛のふるさと
」8月号には「磯波」「木立の外」「めざめて」など4篇を寄稿している。しかしこれらは主
に恋愛体験を抒情的にうたったものや後に詩集『廃園』に収録されることになる叙景詩「晴
間」など、詩社同人の主張するような自然主義詩とは全く異質な作品であった。むしろこの間
に『文庫』に発表された長詩「火」や「魚」「一夜」などのほうが写実的な描写に徹していて
詩社の趣旨に適っていた。
一例をあげれば「心の泉」(早稲田文学明治40年1月号)の第1節は次のようなものであ
る。
わが愛の心の泉夜に昼に
止むときもなくあふれいでああ美し人
君をのみ慕ひながるれ。いかにせむ
堰きかねにける愛の潮日にけに高く
我胸を浸さむとして流るるを、また流るるを
また、「その夜」(早稲田文学明治40年10月号)の第3節は
かくわれは
その夜を恋へり
さすらひや吉備の一夜の
水岸にたわやの髪を
うちなびけ歌をうたひし
一目見し月の光の
少女ゆゑ
さては忘れじ。
と、これもこの半年間、繰り返し歌ってきた恋の思い出を主題とした作品である。
しかし、翌年の41年になって露風は執拗に繰り返した恋愛詩をぷっつりと書かなくなる。
それに代わって深刻な苦悶が詩の主題になる。その先駆けとなるのが2月に発表した「毒瘡」
(『新潮』)「惑乱」(『文章世界』)「幻想」(『文庫』)の諸篇である。
黒き氈(かも)垂れ我眠る
沈みて暗き闇の底
夜の影吸ふ燈火(ともしび)に
おぼろの夢ぞたわれたる。
めざめぬ。あはれこのときに
痛みの靄と火の色と
ひろごりわたれ、束の間の
夢にも疼く瘡のあと。
(「毒瘡」第1、2節)
ああかくて疲れ生(よ)に倦む
我こころ何を求めむ。
日のなやみ、夜のわずらひ
うち絶えて魂は泣きいる
よわげなるためいきのうち
夢路にぞかよふまぼろし
(「幻想」終節)
明治40年6月(推定)の手紙で、郷里にあって不遇を託つ友人の内海泡沫に対し、苦痛懊
悩の叫びはそのまま光輝ある熱情の現れであると慰撫激励した露風は、続けて、芸術はそもそも芸術家の苦心惨苦の結晶であって「われ等が詩に対するの苦痛は先づ何者の痛みよりも超絶する」ものであると述べ、特に現今の詩界に生まれ、新たな詩風に展開しようと望むなら必ず一度は迷い煩うことをまぬがれることはできないといい、自己の体験をつづる。
小生の如き極めて境遇は惨苦に遭遇して苦しめられたりき。されど学費は停止せられたり
と雖も、岐阜地方や小新聞に執筆する迄生活の危急は告げたりと雖も、甲斐信濃越後に放浪
して後山寺にあること三日、失意の情止みがたく憤恨の極死を決したる事ありしと雖も、常
に不遇に打勝ち生活に打勝ち得たる事、これ皆芸術の憧憬やみがたきものありしがためなり。
(『露風全集』第2巻 内海宛書簡 整理番号10)
「我性過激に走りて時に熱語を放ち」と自省している通りの過大な表現に満ちた内容である
が、親から学費を止められたのちの生活の困苦を辛うじて克服し、将来に希望を見出した現在
の心境が、赤裸々に告白されている内容である。39年の後半は彼にとってまさに激動の時期
であった。怠学のため中学を退学させられた彼は、親の勘気を被って仕送りを絶たれてしまっ
た。そのために一時岐阜の『山鳩』発行者の小木曽修二を頼り、大垣の美濃新聞の記者になり
自活の道を求めたこともあった。しかしそれも長くは続かず、東京に舞い戻った彼は小説家の
三島霜川の借家に転がり込んで、詩作に専念する日々を送っていた。そうした逆境に転機が訪
れたのが、年が明けて上田敏が主宰する『芸苑』に寄稿する機会を得たことである。幸いそこ
に発表した諸作品は、詩壇の好評を博し、一躍新進詩人のひとりとして注目を浴びることにな
った。さらに3月には早稲田大学の島村抱月の肝いりで設立された早稲田詩社に加盟して新た
な発表の場を広げるようになった。
この結社は早稲田大学英文科の出身者と学生を中心に結成された。相馬御風、人見東明、加
藤介春、野口雨情らが名を連ねていた。露風は特に早稲田とは関係がなかったが、友人の御風
と東明に誘われて加わったのである。しかし5月にはこの加盟が縁で大学の高等予科に入学を
許可されている。抱月の特別の計らいが働いたものと思われる。
詩社設立の趣旨は『早稲田文学』4月号の文芸消息欄の記事によれば、「沈滞せる現下の詩
壇に意義ある新運動を試み」ることであった。具体的には抱月の「一夕文話」(『文章世界』
明治39年6月号)で説いた言文一致詩論の実践であり、彼が抱いていた自然主義詩の樹立と
いう遠大な詩壇改革の理想の実現であった。そのためには発表の場として『早稲田文学』の一
部を貸してもいいというのが抱月の提案であった。「文芸消息」の伝える決議は、まさにその
呼びかけに応じたものであった。
介春によれば、自然主義の洗礼を受けた詩は「客観的なもの、美ならざるもの、醜なるもの
にもあり、市井の巷や日常茶飯の間にも」求めるべきものであった。そのためにそれは「主観
的、情熱的、感傷的で、詩は清く美しいもの」でなければ詩とされなかつた『明星』を中心と
する「星菫派」と真っ向から対立する詩観であった。具体的に言えば「汚い見世物小屋や陰惨
な老爺の生活、薄気味悪い火葬場や墓地など、今までは全然忌み嫌はれた方面にも求められた
」。また形式においても「定型律詩に対し、もっと自由な、制約や拘束のない詩形が求められ
た」(「早稲田詩社と自由詩社」 『日本文学講座』第9巻 改造社刊 昭和9年)し、詩語
に関しても「我々が日常使用している生きた言葉の中にも美があり、詩がある筈だ。それらを
発見して詩語や詩境を豊かにしたい」(人見東明 「明治詩壇の一角」(『自然と印象』復刻
)昭和33年 昭和女子大光葉会刊)というのが彼らの運動の目標であった。
介春の回想によれば、「当時の早稲田文学といへば、島村先生が帰朝後再興されたもので非
常な勢力があり、文壇の登竜門としてこれに作品の出ることは至大の幸運と名誉を担って一躍
天下の詩人になれるとさへ観られてゐた」という。
露風の先に引用した回顧には、『芸苑』に続き、そうした権威のある早稲田詩社の仲間入り
を果たしたことによって生まれた安堵と自負の想いが込められているように思われる。
同人の作品は早速『早稲田文学』の5月号に発表された。「不安」(介春)、「村童小唄(雨
情)、「姉」(東明)、「雑居」(御風)、それと露風の「棺」であった。介春は街道の物乞
いの老人を、雨情は村の娘を、東明は嫁入りした姉を、御風は巷路の八百屋や魚屋の店先を、
露風は街道沿いの桶屋を詩材に選んでいるが、いずれも日常卑近な情景が客観的、写実的に描
かれている点で従来の美の規範では律することができない新領域を切り開いている内容のもの
であった。しかしながらここには抱月が提唱した言文一致詩は実現しておらず、詩語、詩形は
旧態依然たるもので、五七調か七五調の伝統的な音律を用いた文語定型詩であった。露風の「
棺」も例外ではなかった。
その風の黄なる埃の
村はづれ、橋のとどろき
列並めし牛曳車
懶げに獣は喘ぎ
過ぎにける其れも一時
ふとまたも真昼の「寂寞(しじま)」
こともなく近づく「畏怖(おそれ)」。
街道は光ぞ白め。
かかる時暑き屋並みの
片隅に棺うつ音、
槌の音、つとこそ起れ——
かたかたと箍の輪ひびき
またうごく右へ左へ、
槌とれる男は黙し
この日また棺を製る。
棟の下、風も通はず。
(7節のうちの第2,3節)
まず真夏真昼のけだるい街道風景が描写され、次に長屋つづきの一隅の桶屋に焦点が合わさ
れる。この作品を読んですぐに想起されるのは白秋が前年10月『明星』に発表した「正午」
である。
河岸なみは赤き煉瓦家。
牢獄めく工場の奥ゆ
印刷の響きたまたま
薄鉄葉(ブリキ)切る鋏の音と
棺うつ槌と、鑢と、
ものうげにまじりきこえぬ。
恐ろしき沈黙ふたたび
酷熱の日ざしにただれ
ぺんき塗褪めし看板
白秋の「恐ろしき沈黙ふたたび」や「棺うつ槌」が露風では「ふとまたも真昼の寂莫」「近
づく畏怖」「棺うつ音」など酷似した表現が多く使われ、異なる点と言えば白秋が河岸なみの
情景を描いているのに対して露風は田舎の街道筋の情景に焦点を絞っている点くらいである。
興味深いのは、どちらも孟夏白日の恐怖を主題していることである。この点に関しては、露風
が白秋の真似をしたというのではなく、両者の詩の背後に『海潮音』の中のルコント・ド・リ
イルの「真昼」の存在を無視するわけにはいかない。上田敏による訳詩は、
「夏」帝の「真昼時」は、大野が原に広ごりて
白銀色の布引に、青天くだし天降しぬ。
寂たるよもの光景かな。
に始まる1連4行、8連の詩で、「光明道」の涅槃の境地を主題にしている。この訳詩はそ
のほかにも泣菫の「日ざかり」や蒲原有明の「夏の歌」にも影響を及ぼしていて、白秋も露風
もそれに倣ったといえなくもないのである。
その4者4様の受容の実態については、今は深入りしない。(拙書 『三木露風』1985年 教
育出版センター刊参照)ただ一つだけ指摘しておきたいのは、露風の場合、自分が作った棺を
守ってゆく葬列を幻想する場面を挿入している手法に独自の工夫が施されていることである。
露風は6月末には神戸の父の家で病気療養のために滞在し、そのまま夏休み明けまで上京し
なかった。「上京は又々のびたり。学校は9月10日より開始なれば今より上京しても所詮熱鬧
に苦めらるるに過ぎざれば8月末迄は当地或は郷国にありて心静かに精神を養はんと決心せり
。」と7月ころの手紙で内海に記しているが、東明あてと思われる『文庫』7月15日号掲載
の書簡には「僕は今のところ元気消滅の態」で「詩は一つも作らない、いや作れない」と嘆い
ている所を見るとかなり肉体的にも精神的にも衰弱していた様子がうかがえる。大学の方には
診断書を提出したようだが、9月上旬新進作家の三島霜川の家に居候することが決まり上京し
てからも学校にも出ず、終日家に閉じこもっているような状態が続いているような始末で、9
月下旬には退学処分になってしまった。それでも詩社との関係は維持されて『早稲田文学』1
0月号には「その夜」「晴間」「心の泉」を寄せている。その前にも7月号に「愛のふるさと
」8月号には「磯波」「木立の外」「めざめて」など4篇を寄稿している。しかしこれらは主
に恋愛体験を抒情的にうたったものや後に詩集『廃園』に収録されることになる叙景詩「晴間
」など、詩社同人の主張するような自然主義詩とは全く異質な作品であった。むしろこの間に
『文庫』に発表された長詩「火」や「魚」「一夜」などのほうが写実的な描写に徹していて詩
社の趣旨に適っていた。
一例をあげれば「心の泉」(早稲田文学明治40年1月号)の第1節は次のようなものである
。
わが愛の心の泉夜に昼に
止むときもなくあふれいでああ美し人
君をのみ慕ひながるれ。いかにせむ
堰きかねにける愛の潮日にけに高く
我胸を浸さむとして流るるを、また流るるを
また、「その夜」(早稲田文学明治40年10月号)の第3節は
かくわれは
その夜を恋へり
さすらひや吉備の一夜の
水岸にたわやの髪を
うちなびけ歌をうたひし
一目見し月の光の
少女ゆゑ
さては忘れじ。
と、これもこの半年間、繰り返し歌ってきた恋の思い出を主題とした作品である。
しかし、翌年の41年になって露風は執拗に繰り返した恋愛詩をぷっつりと書かなくなる。
それに代わって深刻な苦悶が詩の主題になる。その先駆けとなるのが2月に発表した「毒瘡」
(『新潮』)「惑乱」(『文章世界』)「幻想」(『文庫』)の諸篇である。
黒き氈(かも)垂れ我眠る
沈みて暗き闇の底
夜の影吸ふ燈火(ともしび)に
おぼろの夢ぞたわれたる。
めざめぬ。あはれこのときに
痛みの靄と火の色と
ひろごりわたれ、束の間の
夢にも疼く瘡のあと。
(「毒瘡」第1、2節)
ああかくて疲れ生(よ)に倦む
我こころ何を求めむ。
日のなやみ、夜のわずらひ
うち絶えて魂は泣きいる
よわげなるためいきのうち
夢路にぞかよふまぼろし
(「幻想」終節)
これらの詩が作られた動機については、2月1日付の内海宛の手紙が参考になるだろう。彼は
その中で次のように告白している。「動乱せる都よ。小生はもはや生存にはあきあき致候」「
思ふに人生はすべて虚無なるべし、詩に於て満足と慰安を感ぜざる小生の如きは抑々何により
て解決を求むべきか日夜小生が胸を痛ましむるは此耐えがたき懊悩に候」(整理番号26)。彼
の虚無の哀感はぬきさしならない現実生活の重圧と詩作への懐疑に基づくものであった。入京
以来3年に及ぶ自活の苦悩は鉛のごとく彼を圧迫していった。この時彼は疲弊した日々の生活
のために人生にも芸術にも満足と慰安を感じなくなってしまっていた。人生と詩作と、ともに
確信的な手ごたえがなく、何一つ約束されたもののない状況下において、世界および自己と自
我との関係が疎外的に感じられた時、彼の精神はますます虚無の深淵に沈潜せざるを得なかっ
た。かくて彼は、5月から7月にかけて同様の傾向の作品を発表し続けるのである。「蒼蠅ぞ
歌ふ」(詩人5月)「青色の罎」(新潮6月)「路傍の想」(同)「鉛の華」(早稲田文学7
月)「運命」「(江湖7月)街の辻」(同)などである。
こころもとなき日の旦(あした)、暮るる夕よ、
けふも独りしながむれば
甍の波の空のもと風黄に募り
色も悲しや雲の脚迷い立ちたれ。
さてはうつらふその果てに我墓ありや
明日知らぬいのちの行くゑ
(「路傍の想」第2、3節)
窓越しに見る都会の景物は、生の象徴であって、迷い立つ雲の脚はさながらおぼつかない自
己の生存の表象である。「明日知らぬ命」にとって日々は「こころもとなく」、生は「もの憂
きまぼろし」にしか過ぎない。
欝憂の我心の原に
咲きいでし鉛の華を
一辨(ひとよ)摘み、つみつつ嗅げば
肉顫ひ、霊(たまし)わななく。
(「鉛の華」第1節)
自然主義論者の片山天弦は明治40年『早稲田文学』10月号に「無解決の文学」という論文
を載せた。そこで彼は自然主義の中心生命について、日常実用の道徳すなわち第二道徳も判断
をもって到底解決すべからざる人生の根本疑惑、恐怖、痛苦、哀傷等の胸奥無限の悩みをを促
す幾多の事象を、さながらに誠実に表現するところにあると論じた。露風は恐らくその論文に
啓発されたのであろう。11月号の『文庫』の「再び近時の短歌界に就て」で次のように自己
の所信を表明している。
かへり見て思ふに時代は猶予なく進歩してきた。文明科学の潮流は汪然として其極まるとこ
ろを知らない。社会人生の事は益々複雑になって来る。矛盾、衝突、惑乱、疲弊、其等の深酷
なる人間胸奥の声は到る処に悲哀の叫びをあげてゐる。僕らは常に知識ある感情を支配し、僕
等は常に生きた人生の塵埃を呼吸する。かの甘き蜜の如きささやきや花の開落する響の純感情
の詩歌には無論到底満足する事は出来なくなったのである。
これは与謝野寛をはじめとする所々からの非難誹謗に対して反論するとともに「白秋氏の誇
張に過ぎてけばけばしく、あまりにあくどい」歌風に対して「内観的に真の事相を謳うこと」
を主張したものである。彼が詩作の上で恋愛詩から苦悶詩へと決然として転換した背景にはこ
のような彼自身の現実認識と時代の潮流がおおきくかかわっていたのである。
「蒼蠅ぞ歌ふ」(「溝の蠅」と改題)「青色の罎」「路傍の想」「鉛の華」は『廃園』の「
推移」の章に収録されている。これらの作品をそれ以前に作られた自然主義的な傾向の作品と
比べると詩境に格段の進展を見せている。ここでは苦悶する心情を説明しようとはしていない
。苦悶する心象そのものを何とかして言語化しようとする努力が払われているように思われる
。そのために私小説まがいの直接的表現態度は退けられ表象的態度による気分の表出に力点が
おかれているのである。
暗き夜にわれ眠るとき、わが心
また醒むる時。わが額(ぬか)に「想(おもひ)」ぞ囃す。
そのかたち愁ひの中に見まもれば
面も曇れる一列(ひとつら)ね深く沈みて
青色の歎きの罎ぞならびたる。
(「青色の罎」第1節)
枕元に赤いのやら青いのやら黒いのやら色々並んでいる薬瓶をみて作った詩で、入院を挟む
前後の闘病生活の間に、書かれたものである。しかし、この詩においては薬瓶を全く意味して
いない。憂愁に満ちた想念の数々が脳裏に映り行く様を瓶の一列によって形象化してみたので
ある。この詩をたとえば「毒瘡」と比べてみるとそれが即物的に過ぎて味わいの豊かさにかけ
ることおびただしいことに気づくであろう。散文的精神から詩的精神へという意識の変革がこ
の間になされたことの明確な証拠をここにみることができるのである。『廃園』に採録するに
あたって、露風自身のそうした自覚が働いたものといえるであろう。
、2月1日付の内海宛の手紙が参考になるだろう。彼はその中で次のように告白している。「
動乱せる都よ。小生はもはや生存にはあきあき致候」「思ふに人生はすべて虚無なるべし、詩
に於て満足と慰安を感ぜざる小生の如きは抑々何によりて解決を求むべきか日夜小生が胸を痛
ましむるは此耐えがたき懊悩に候」(整理番号26)。彼の虚無の哀感はぬきさしならない現
実生活の重圧と詩作への懐疑に基づくものであった。入京以来3年に及ぶ自活の苦悩は鉛のご
とく彼を圧迫していった。この時彼は疲弊した日々の生活のために人生にも芸術にも満足と慰
安を感じなくなってしまっていた。人生と詩作と、ともに確信的な手ごたえがなく、何一つ約
束されたもののない状況下において、世界および自己と自我との関係が阻害的に感じられた時
、彼の精神はますます虚無の深淵に沈潜せざるを得なかった。かくて彼は、5月から7月にか
けて同様の傾向の作品を発表し続けるのである。「蒼蠅ぞ歌ふ」(詩人5月)「青色の罎」
(新潮6月)「路傍の想」(同)「鉛の華」(早稲田文学7月)「運命」「(江湖7月)街
の辻」(同)などである。
こころもとなき日の旦(あした)、暮るる夕よ、
けふも独りしながむれば
甍の波の空のもと風黄に募り
色も悲しや雲の脚迷い立ちたれ。
さてはうつらふその果てに我墓ありや
明日知らぬいのちの行くゑ
(「路傍の想」第2、3節)
窓越しに見る都会の景物は、生の象徴であって、迷い立つ雲の脚はさながらおぼつかない自
己の生存の表象である。「明日知らぬ命」にとって日々は「こころもとなく」、生は「もの憂
きまぼろし」にしか過ぎない。
欝憂の我心の原に
咲きいでし鉛の華を
一辨(ひとよ)摘み、つみつつ嗅げば
(「鉛の華」第1節)
自然主義論者の片山天弦は明治40年『早稲田文学』10月号に「無解決の文学」という論
文を載せた。そこで彼は自然主義の中心生命について、日常実用の道徳すなわち第二道徳も判
断をもって到底解決すべからざる人生の根本疑惑、恐怖、痛苦、哀傷等の胸奥無限の悩みをを
促す幾多の事象を、さながらに誠実に表現するところにあると論じた。」露風は恐らくその論
文に啓発されたのであろう。11月号の『文庫』の「再び近時の短歌界に就て」で次のように
自己の所信を表明している。
かへり見て思ふに時代は猶予なく進歩してきた。文明科学の潮流は汪然として其極まるとこ
ろを知らない。社会人生の事は益々複雑になって来る。矛盾、衝突、惑乱、疲弊、其等の深酷
なる人間胸奥の声は到る処に悲哀の叫びをあげてゐる。僕らは常に知識ある感情を支配し、僕
等は常に生きた人生の塵埃を呼吸する。かの甘き蜜の如きささやきや花の開落する響の純感情
の詩歌には無論到底満足する事は出来なくなったのである。
これは与謝野寛をはじめとする所々からの非難誹謗に対して反論するとともに「白秋氏の誇
張に過ぎてけばけばしく、あまりにあくどい」歌風に対して「内観的に真の事相を謳うこと」
を主張したものである。彼が詩作の上で恋愛詩から苦悶詩へと決然として転換した背景にはこ
のような彼自身の現実認識と時代の潮流がおおきくかかわっていたのである。
「蒼蠅ぞ歌ふ」(「溝の蠅」と改題)「青色の罎」「路傍の想」「鉛の華」は『廃園』の「
推移」の章に収録されている。これらの作品をそれ以前に作られた自然主義的な傾向の作品と
比べると詩境に格段の進展を見せている。ここでは苦悶する心情を説明しようとはしていない
。苦悶する心象そのものを何とかして言語化しようとする努力が払われているように思われる
。そのために私小説まがいの直接的表現態度は退けられ表象的態度による気分の表出に力点が
おかれているのである。
暗き夜にわれ眠るとき、わが心
また醒むる時。わが額(ぬか)に「想(おもひ)」ぞ囃す。
そのかたち愁ひの中に見まもれば
面も曇れる一列(ひとつら)ね深く沈みて
青色の歎きの罎ぞならびたる。
(「青色の罎」第1節)
枕元に赤いのやら青いのやら黒いのやら色々並んでいる薬瓶をみて作った詩で、入院を挟む
前後の闘病生活の間に、書かれたものである。しかし、この詩においては薬瓶を全く意味して
いない。憂愁に満ちた想念の数々が脳裏に映り行く様を瓶の一列によって形象化してみたので
ある。この詩をたとえば「毒瘡」と比べてみるとそれが即物的に過ぎて味わいの豊かさにかけ
ることおびただしいことに気づくであろう。散文的精神から詩的精神へという意識の変革がこ
の間になされたことの明確な証拠をここにみることができるのである。『廃園』に採録するに
あたって、露風自身のそうした自覚が働いたものといえるであろう。
(5)口語自由詩の試み
明治41年5月の『早稲田文学』に発表した御風の「痩犬」と露風の「暗い扉」は、御風が
「詩界の根本的革新」(明治41年3月)で提言した3条件、即ち雅語を廃止し日常談話に用い
られている口語の採用、外迫的なリズムでなしに情緒主観さながらの絶対的自由なリズム、行と
連の定型の制約の破壊に基づいて試みられた作品であった。これは詩史的に見れば前年すでに川路
柳虹が発表した口語詩「塵溜」をさらに理論的な方法論によって押し進めた作品であった。「暗い
扉」は次のような作品である。
暗い扉(と)が閉ざされてゐる。
その前で盲目どもがわいわい噪ぐ。
まっくらな室。
どんどんと一人が叩く。
するとまた二人が叩く。
今度はみんなよってどんどんと
割れるほど叩きだす。
「おかしな扉だ。」
「まっ暗な扉だ。」
「開けてくれ!。
と喚く。
けれども扉はいつまでも動かない。
「死ぬんぢゃないか?」と誰(たれ)かが云ふ。
その声が顫えてゐる。
いひ合したやうに皆んなが黙る。
其の間、長い恐ろしい沈黙がつづく。
「死ぬんぢゃないか?」とまた──
けれども「否」と云ふものが無い。
そこで皆、低く唸るやうに泣きだした。
暗い扉はやっぱし閉ぢてゐる。
山田の「多忙と懊悩に閉ざされた私の心」(『自伝 若き日の狂詩曲』 昭和26年 講談
社刊)という心的状況は、そのまま露風の「暗い扉」のモチーフである閉塞感の反映でもあった
。山田の魂は露風の作品を媒介として露風の魂と共鳴したのであった。その後リートから交響詩
へと関心を移していった山田は、「暗い扉」に潜在する動的な要素と静的な、沈黙の瞬間の力と
の音楽的対立性に着目した。「日本の詩による音詩の作曲」意欲は、この詩の「沈黙の瞬間の力
」に日本の音楽的精髄を洞察したのであった。
とはいえ、「暗い扉」発表時に問題になったのは、嘉香の評にあるようにもっぱら詩形と詩想で
あった。主題は彼の説くとおり死の不安であり、それは露風の現実体験での象徴的表現であった
が、その背景にメーテルリンクの静劇が存在するという指摘も否定できない。人生は運命に支配
されている、その運命は死によって形を表す、人間は死の力のよって形を表す、人間は死の力に
引きずられ、死の力によって人生最後の解決は着くのだというメーテルリンクの思想は、人生の
苦悩に呻吟する露風の心に深く浸透したであろう。「この<運命>代表者である<死>の姿は沈
黙であって、この沈黙は又霊魂の影、声であると云ふのである。故に彼の気分劇には多くの<間
(ポーズ)>が挿入してある」という抱月のメーテルリンク劇の解説(「メーテルリンクの新史
劇」大正2年)は、「気分を含み、立体的な思想がある」という「暗い扉」にそっくり当てはまら
ないだろうか。この際、露風は「群盲」だけを模倣したと限定する必要はない。それでも直接的
には「群盲」の影響が濃厚だったと判断するのは、そのころ、彼が最も深く進攻を結んだ松原至
文の訳出や御風の話から刺激を受けたであろうと推測されるからである。
「暗い扉」発表から4か月ほどして露風は、詩界の趨勢いついて内海に報告しているが、そこで
次のように述べている。「
口語詩の勢力は事実に於て詩界を席巻したり。恰も自然主義の文壇に奔馳せし当初の如し、小生等
相集まりて談論するの論談は必ず口語詩に関するの一事となれる迄に至れり。」「口語詩に就ての
意見は区々なれども小生は小生一個の考ある事故来月あたりは意見を公に致すべし。『ハガキ文学』
にては口語詩を募りて小生是れを撰󠄀評する事となれり。『江湖』又然らん。『新天地』既
に原稿編輯成りて都下の渇望を充たさんとす。」(明治41年9月13日)そのうえで彼はこうし
た詩壇の革新期においていまだ自由な好詩形を発見するに至っていないことに煩悶転々している状
況にあった。
10月になってその苦心の作が「路」(『早稲田文学』)、「夏の港の印象」(『新天地』)「野
路の日光」(『ハガキ文学』などに発表された。およその13篇ほどの口語詩であった。これらの口
語詩の構想はすでにすでに7月29日付の内海宛の手紙で次のように記している。
一つ詩界を動かしてやるつもりで今極めて大胆な形式に依って詩を十篇ばかり草しかけて居
ます。ウマクやりとげる決心です。八月十五日から九月にかけての雑誌に端倪の暇のない活動を
続けて、其辺の連中を驚かしてやりませう。
その中から「路」の第一連と「野路の日光」の前半を引用してみる。
甘い昼のねむり。赤い花の瞳。
照り疲れた日光。
長い長い野原の道⋯⋯⋯⋯
ぴったりと吸合った草の葉の接吻⋯⋯⋯
刺すやうな、強い強いにほひ⋯―⋯
ああ、彼(あ)のやはらかな、深い空の奥から、
色の乱れた細い音色が聞えてくる。
足もとの赤い花が、ためいきを吐く⋯⋯⋯
(「路」)
草のいきれ、
紅い花⋯⋯⋯
まっしろに輝く小石、
午後の空は眠って
日光がしたたる。
昼の寂しさ、
おそろしいやうな寂しさ⋯―⋯
耐へがたい嘆きをつつんで、
押耐(おしこら)でも居るのか、
ゆるぎのない沈黙が、かがやく。
虫が啼いてゐる⋯―⋯
たよりのない声で
さも苦しさう。
「どちらも従来の露風の詩には見られない斬新な趣向を凝らしている内容の詩である。ここで
目に付くのは、ダッシュやリーダー線の多用や現在形止め、名詞止めの乱用である。この点に
関して、嘉香は「語法の緊密巻を盛り上げ、語脈を短縮すると共に全体に余剰を含める工夫」
であるといい、その創始者は川路柳虹であって、彼は明治40年から好んでこの詩法を用いて
いたと『口語詩少史』(昭森社 1963年)の中で論じている。その傾向は翌年になってさ
らに顕著な流れとなった。
露風のここに掲げた二つの作品も、柳虹が盛んに試みた手法を模倣し、感覚的な語句を用いて
印象的な気分詩を試みたものである。「野路の日光」はたぶん、荒廃した心身を癒す目的で郷里
に引きこもっていた時の孤独な感傷を詠うことを主眼としたものであろう。夏の終わりの日光が、
衰弱した作者の肉体を圧倒する。強烈な太陽の下の草いきれや赤い花は感覚的にとらえられた自
然の生命力の象徴であろう。それと対照的に弱りはてた虫に託されてつらく苦しい生命の危機状
態が詠われる。散歩の途中にふとこみあげてくる「耐えがたい嘆き」を感覚的な表現で殉情的に
表出している。これらの詩篇の中で唯一『廃園』に採録されたのは、そうしたところに満足した
ためであったろう。
ところが、こうした口語自由詩の試みは長く続かず、12月発表の詩論「自由なる詩歌」および
その実践ともいうべき詩作品「十月のおとづれ」「夜」において、にわかに雅俗折衷体の自由詩
の試作を試みるようになる。「自由なる詩歌」の論旨は蒲原有明に代表される詩語雅語を棄却す
るとともに俗語卑語までも詩の中に持ち込む御風らの極端な口語を批判し、「現代語の中から極
く適当な、確かな言葉を取捨選択することで詩後の洗練と緊縮をはかる」べきだというのである。
「十月のおとづれ」は有明などによって磨きをかけられた文語体定型詩と当時勃興しつつあった
口語体自由詩を止揚したところに生まれた新詩体であった。この詩が作られたころの明治41年
9月19日付の内海宛の手紙の中で「僕は在来の詩を悉く捨てます、何らの遺憾はない。」と不退
転の決意を表明しているが「十月のおとづれ」はまさにまさにそうした覚悟の下に編み出された苦心
の作であった。
十月来たり、路上の花悲しく破れ、微風心なく雲を払ふ時、
或は又、蒼天の星一ときに歌ひ、きらめき、涙繁き夜(よ)の額に照る時、
十月、汝の歌のいかに細く、強く、また寂しいか!
わが心はおどり、哀しみ、顫へ、おののき、恰かも繊葉に月光のふりそそぐが如く、黒衣(こくえ)をま
と とひて 、夜、地上に彷徨(さまよ)ふ者の如く、すべてわが胸に秘(ひそ)めたる追憶(おもひで)
と といふ記憶(おもひで)、悲嘆(なげき)といふ悲嘆(なげき)一切の感覚はみな目ざめきたり、天(そ
ら)
らに ら)にむかって涕泣する。──それは恰も露はなる梢頭の花が、暗夜の空に戦ぐやうに。
(第1連)
この詩は説明を加えるまでもなく凋落の秋の寂寥を感傷的に詠ったものであるが、その解読の助けとなる資
料をあげれば、明治41年9月19日と29日の内海宛の手紙である。その中で彼は次のように述べている。「あ
あ、秋、秋、秋。十月といふ声を聞くと胸が顫ふ。僕は今頃からかけて非常に追憶と寂寥の感が強くなるので
、毎年此時分に泣かぬ事は無い。」「今宵も亦雨なり、落葉頻りに散って、その声の何ぞ切にして哀しきや。高架
鉄道と電車の響き、而して街を吹く風の音、雨の嘆き、交も小生の聴官をふるえしめいたましむ。」こうした鋭敏で
繊細な感情に修辞を施したのが、「十月のおとづれ」であった。
この雅俗折衷体自由詩の採用については、5月以来ともに口語詩運動を推進してきた盟友御風が早速『早稲田
文学』12月号の時評で戸惑いと失望を表明した。
柳虹氏と同じく印象に重きを置く作風では露風氏のが、より成功に近い。が、氏が先月の「新声」に発表
した「十月のおとづれ」は、氏の従来の行き方と変わって居る。何故に氏が折角進み来った経路を転じて、文
章体の散文詩に舞ひ戻ったか受け取り兼ねる。氏としては寧ろ邪道ではなかろうかと思ふ。
露風の方針を後退した姿勢と受け止め、邪道に踏み込んだと批判した御風の見解の正しさは、次のような後輩の
詩人による、露風の詩史的な位置づけが通説化していることによって明らかであろう。
今この四年間の時期に対して、ここに花を開いた傾向の根本特徴と、自由詩の関係がどういふものであった
かを、事実に就て検討して見るに、北原氏に於ては前半、三木氏に於ては全部、前時代に於て建設された蒲原
有明氏の町長主義に対し、傾向上で、また様式上で、引き継いでゐる特徴の歴々たるものがある点に於て、こ
れは正に蒲原有明氏の後継時代と見るべきものである。(『自由詩の発達とその研究』 昭和8年 巧人社)
福士がこう判断した根拠は、一つに生々しい自然主義的傾向が欠如していること、二つにこれの表現に直接の用具たる
口語に対する尊重の欠如であった。露風が口語体自由詩の先覚者の一人でありながら、その立派な位置を擲って、既成
の表現方法に逆戻りし、それを踏み返してしまった」といって、露風の新たな試みに対して鋭く批判したのである。せっかく
鮮明な新機軸を詩壇に確立することを目論んだ彼の試みも、有明の目から見れば殊更呼号して独自の詩風を立てるほど
のものではないと一蹴されたのも、やむを得ないことであった。露風が発案した文章体の自由詩は、残念ながら御風が危
惧した通りその後の露風の詩業全体にかかわる重要な方向転換であった。
(6) 詩集『廃園』の抒情
明治42年6月初旬露風は友人の加藤精一の紹介で、目白高田村雑司が谷にある実業家の根津嘉一郎の別邸六合舎に転居した。露風の回想記「雑司が谷の秋」によれば、その広い屋敷の森の中にたった1軒雅致のある家が建っていた。そこには古びた池があった。彼はとりわけその廃れた池を愛したという。この森の印象を「森は美しいですよ。青葉の光落日の色、軽い風のあゆみ、たそがれには晩鐘が響いて何となくミレの絵を思い起こさせます」と早速内海に語っている。(手紙79)そして「僕は森にきて熱心に詩を書いています」と近況を述べているが、事実、嘉香が『早稲田文学』8月号で「7月の詩壇で作の多いのは三木露風氏であった」と述べているように、『新潮』7月号には「廃れし園」の総題で6篇を掲げる一方で、『文章世界』には「味」ほか3篇などを寄せるなど10篇余りを集中的に発表し、旺盛な創作活動ぶりを詩界に誇示した。これらの作品の多くは詩集『廃園』の巻頭の章「廃れる園」に組み入れられていることから見ても、この時期の露風の高潮した詩的精神を物語るものであるし、その中の「静かなる六月の夜」や「去り行く五月の詩」は、後の露風のアンソロジーにも決まって採録されていて、初期の露風の抒情詩の代表作と認めていいだろうと思う。ここでは「去り行く五月の詩」を取り上げて検討を加えてみたいと思う。
われは見る。
廃園の奥、
折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、
静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。
空の色やはらかに青みわたり
夢深き樹には啼く、空しき鳥。
あゝいま、園のうち
「追憶(おもひで)」は
頭(かうべ)を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは
哀しきにほひのあとを過ぎて
甘きこころをゆすりゆすり
はやもわが楽しき住家の
屋を出でゆく。
去りてゆく五月。
われは見る、汝(いまし)のうしろかげを
地を匐へる小さき虫のひかり
うち群るゝ蜜蜂のものうき唄
その光り、その 唱の黄金色なし
日に咽び夢見るなかーー
あゝそが中に、去り行く
美しき五月よ。
またわが廃園の奥、
苔古れる池水の上、
その上に散り落つる欝金の花、
わびしげに欝金の花、沈黙の層をつくり
日にうかびただよふほとり――
色青くきらめける蜻蛉ひとつ、
その瞳、ひたとただひたと瞻視(みつ)む。
あゝ去りゆく五月よ、
われは見る汝のうしろかげを。
今ははや色青き蜻蛉の眸。
欝金の花。
「時」ゆく、真昼の水辺(すいへん)よりしてーー
作者は過ぎ去っていく晩春の自然への限りないいとおしみを、廃園の中の風光の一つ一つにまなざしを注ぐことで表現しようと努めている。廃園の奥に散り乱れる花に始まり、空の色、鳥の鳴き声から地を這う子虫、群れる蜜蜂へと下降し、色青き蜻蛉をとらえた視線は、さらに池の面に散り落ちた山吹の花へと横に流れ、かくして廃園の奥の樹立に囲まれた小さな世界を旋回して止まる。そしてその都度冒頭に提示された主旋律が去りゆく晩春への惜別の情調を奏でるのである。その旋律はやや間延びのした緩やかなリズムに乗せられて、廃園に漂う晩春と初夏のあわいの、やや倦怠感に麻痺させられたような雰囲気と退廃的な感傷的気分が抒情的に歌われている。
伊藤信吉はこの詩を評して、「これはおそらく『廃園』を代表する作品といってよい。」と述べ、この詩の優美さは「人の思いをまどわすような季節の触感と、そこに醸さるやわらかな情緒を、言葉のニュアンスとそのリズムの諧調によって、うつくしい織物のように織りなし」ているところに生まれると説いている。具体的にいえば、「リズムの構成は、7・5音を基礎にしてこれに4音・6音を折り込み、いささかのみだれもなく作品の情緒に流れ込んでゆく。しかしこの詩の感銘をいっそう美しくするのは言葉の優美なもちい方であり、その配置のたくみさである」と解説している。(現代詩の鑑賞 昭和41年 新潮社 )
ところで、作者は第2連において「あゝいま、園のうち/ 『追憶』は頭を垂れ、/ かの『時』こそは/ はやもわが楽しき住家の/ 屋を出でゆく。」と外界の描写から内心へと目を転じている。季節の推移に浸りながら同時に想起される恋の思い出と惜別する自身を重ね合わせることで、自然に溶け込み混然一体になり、自然の景物と同化させる。そのために「追憶」の具体的な内容まであえて踏み込んで表現することを避けて、「追憶」を去りゆく季節の中にさりげなく溶け込ませようと試みているのである。その点、同時に発表した「静かなる六月の夜」で「歓楽(よろこび)消え、失はれし夢のあとを/ 哀れに結べるふたつのたなごころ、/ われは知る、しなやかなる君が小指の/ 悲しき顫へと、ただその戦なきとを」とこまやかに「追憶」が語られているのとは対照的である。「追憶」に対してもそれを無理に引き留めようとすことなく、いとおしみながら、季節とともに優しく見送ろうとするのである。
露風は、6月発表の小説「千本浜の宿」の末尾で次のように記している。
五月になった。/ 人はかかる時一年中に於て最も深い哀傷の感をなし、又、甘く優しい 追憶の悲しみに打たれる。私は日に日に去りゆく春の姿をどんなに淋しく美しく見送ったで あらう/ 若い心に響く耐へがたい万象の景象を如何にして強く心に味はずに居られやう。
「最も深い哀傷の感」は、晩春の景物によってもたらされたものであり、「甘く優しい追憶」を悲しむ気持ちもそこから喚起されるのである。悲しみは追憶の内実ではなく過去を追慕する主体の心情である。この詩においても過ぎ去っていく晩春の景物に囲まれてふと心によぎった甘く優しい追憶を悲しく回想するのである。この心の動きを書き加えることによって単なる叙景詩で終わるのではなく、心景一体となった情景が生まれ、去っていく春の擬人化によって追憶の内容も暗示されるのである。自然は単なる対象物、眺められる自然ではなく、主体によって私物化され、内面に取り込まれた自然へと変質するのである。
(7) 詩人の職分
『廃園』刊行後の露風の作品は、徐々に寂寥の気分を表現する内容に変質していった。10月以降の詩の題名をみても、「秋のをはり」「秋のおとろへ」「寒きのぞみ」「日没のうた」「わが憂愁」「くらき地平」など、秋から冬、日没から夜へと暗鬱な世界を彼の心象風景の象徴として表出している作品が多くみられる。『廃園』の持つ甘美な感傷を優美な色彩をもって謳う抒情性はすっかり影を潜め、あるのは苦渋に満ちた魂の薄明か幽暗の中での痛ましい呻吟だけである。そうした詩法の変化はそれらの詩が秋から冬にかけて制作されていることにもよるが、より以上に彼の自覚的な意図が大きく影響していると考えられる。「人間はできるだけ多く人生の歓楽を享受しなければならぬ。けれ共これは少くとも私ひとりにとってはあまりあてはまらない事なので私は歓楽を受けるのにはあまり欠けた心を持ってゐるのです。私は元来詩人ですが実は心理から立ち入って云ふと寧ろ非常に科学的だと思ふ、所詮恋を了解し批評するけれ共その甘さに酔ふ事がもはや出来ないのです。」「それは確かに抒情詩人として立ちたいと思って居ました。けれども其れだけでは私は満足出来なくなった、もっと抒情以外に何か深いもの意味のあるものをと求めだしたのです。私は自分の此傾向を極端まで推し進めて行かうと思ひます。」これは3月12日に記した内海宛の手紙の一部である。彼はここで経験を通して抒情詩人としての資質の限界を痛感し、新たに「何か深いもの意味のあるもの」を探求しようと切望しているのである。それと同時に彼は「詩人の職分」についても言及し、それは一言でいえば窺知することであるという。窺知とは「自然の抱いてゐる心を奥深く観取するする」ことである。そのことによって伝統的な花鳥風月的自然観から脱却して新たな世界観に立脚した詩の世界がひらけてくるのだと力説する。
実はこの頃、彼は詩集『寂しき曙』の刊行を目前にしていた。『寂しき曙』の発行は、遅れて11月になったが、そうした時期に記されたこの手紙は、『寂しき曙』の詩境を十分に反映した内容になっていたとみて間違いないだろう。後年彼は『寂しき曙』にいたる詩作の遍歴ついて次のように説明している。
其の集には、余程「求める心」が這入って来た。そして私の心は「真実」を最も愛するやうになって来た。それまでは、情緒と感覚との彷徨であったが、併し、私は、真実の美を求めるやうになった。(私の詩作の経路 短歌雑誌 大正7年新年号)
このような彼の詩作に対する想念が実際の作品にどのように表現されているかを、「快楽と太陽」という作品を例にして考察してみよう。この詩は「快楽と太陽外六篇」と題して『三田文学』の明治43年5月号に掲載されたものである。
われは四月の臥床に横はれり。
大空の光青く、
心の上にぞみたれば、
われは、かくて痛ましき快楽(けらく)の眼を閉ぢたりーー
静かなる、されど物ほしげなる日の光。
あゝかの光こそは我が恐るゝものなれ。
愚にも女、窓を開きてみちびき入れし、
緑の木の間の大なる赤き太陽。
そはまた、告げよまたも正しき生活のあゆみなるか。
心の放蕩と仮借となき、
そはまた憎(にくみ)と労作(らうさ)との人生なるか。
されど、されど、我眺めはあまりに悲し。
我庭は空しくして小鳥さへ飛ばざれば、
また流るゝ水の音(ね)も立てねばーー顫
あゝ窓を閉じよ我女。
いかなれば汝の目の訝しみ我を見ももる。
そは汝と太陽との、
そは快楽と太陽の、
今や、おそるべき闘によりて色移らんする我を。
霊(たましひ)の蒼ざめて顫ふ面(おもて)を。
あゝ閉ぢよ窓を――
この詩について服部嘉香は『早稲田文学』6月号で「之には確かに新しい露風氏が見えてゐる」と評価して次のようにその新しい傾向について論じている。
厳粛な正しい生活に起きよと朝の太陽に眼ざまされた時に、自分の現在の生活を、女と一室に暮らしてきた快楽の生活を悔いもし恥もして尚ほ断つ事ができないといふ心事を語ってゐる。観念としては平凡だが、反省自覚の生活に伴ふ悔恨を現はすのに一種の調子を以てした佳い詩である。
反省自覚の生活に伴ふ悔恨」という心事は、実はすでに『廃園』の「蒼ざめたる心の歎きな
どに おいて、「わが醜き姿」とか「無惨なる怨恨と悲愁と憤怒」などと歌われていて旧態依然たるたる表現であったが、嘉香が着目したのは、『廃園』の抒情詩的な詩風から気分象徴詩的な詩風へと移っていった表現方法の新味に着目しての発現であった。
自然主義文学について片山天弦は、苦悶すべき現実生活の真相の抒情的表白であるが、その苦
悶は純一真面目な若い心の要求を根本生命としている文学であって、単なる萎靡退廃の文学はないと述べたが、露風の「快楽と太陽」の主題はまさにその純一真面目なる無解決の解決の苦悩であった、「単純なエピキュリアンではない」という嘉香の露風評はこの点をさしてのことであった。象徴的に提示された「太陽と快楽」という二つの命題は、両極に揺れ動く自然的
なものと悟性的なものの苦悶の反映であった。耐えがたい欲望を願望し、その充実の刹那を美なる一瞬のいのちと思うエピキュリアンと、正しい生活を願うストイシズムの霊魂とのせめぎ合いによる苦悶の真相をここで作者は純一真面目に自問自答する。
「快楽と太陽」は後年、『我が歩める道』に採録される際、「人生と内観」という題に改められ、内容も次のように大幅に改作された。
我れに告げよ
そは正しき生活なるか
あるはまた、
憎と労作との人生なるか。
我心の庭の眺め、
空しくして、
小鳥さへ鳴かず。
水の音も立てざるに、
我は「幸福」と共にあり。
小鳥の囀りと水の音は彼にとって満たされた快楽の象徴であった。だからこそ原詩では小鳥さ
え飛ばず、水の音も立てない庭の殺風景で疎外された眺めは「あまりに悲しい」のである。それゆえに「正しき生活のあゆみなるか」という自省を押し切って快楽の臥所に逃避するのである。しかし、改作された詩はこれを逆転させ、禁欲的な生活にこそ「幸福」があるというのである。この求道的な精神こそ、彼が内海にあてた手紙で述べた「何か深いもの意味のあるものの世界であった。
これと対照的な扱いをされたのが、「神と魚」「暗き地平」「沼のほとり」などである。これらはほぼ初出の形で『我が歩める道』に掲載されている。『趣味』43年2月号に発表された「沼のほとり」である。
蒼ざめたる光、音なく
あけぼのは雪の上にきたる。
風は幽かに枝をふるはし
木は屍の如く、空しき腕を交す。
そのとき君は沼のほとりにあり。
沼の水凍りて、
煙のごとく「夜」は靡けり。
いかなれば君のここにありしか、
ああ、いかなればわが眼に、君の見ゆる。
その面は憂愁のスフィンクス、
「過去」よりきたる悲しみの烙印あり。
霊は、雪に埋もれて燃え、
荒きすすり泣きの声、そこよりきこゆ。
木は屍の如くに充つ。
蒼白きあけぼのは今、来たらんとす、
語れよ。無言の君、寂び果てし沼のほとりに。
ここに描かれた沼の情景は『廃園』でうたわれた池の情趣を一変させている。
水面に散り敷く欝金の花もなければ、散りかう花もない。また色青き蜻蛉の瞳もない。あるのはただ雪に埋もれた大地と凍てついた沼とそのほとりの屍のような冬木立の姿だけである。音もなく色もない、影絵のような薄明の中を幽かな夜の空気だけが移動する。この「寂び果てし沼のほとり」の薄明に霞む冷たい虚空に、「ああ、いかなればわが眼に、君の見ゆる」と現存するはずのない幻影を認め、半ばいぶかり、半ば驚き嘆く。君の存在は、すべて顔面に集中され、その顔面はまるで能面のように「君」の人格の仮象の役割を与えられ、憂愁に沈む「顔面」だけが舞台の黒い紗幕に宙づりされた能面のように幻視される。しかし幻視されているのは、人面だけではない。その背景をなす荒涼たる沼のほとりもまた、作者によって描かれた心象風景である。
それでは「語れよ。無言の君」と促される「君」は何者であろうか。評者によってさまざまな解釈が施されているが、筆者は『過去』より来る悲しみの烙印を押されている自己の分身だろうと思う。露風は一月前『新潮』に発表した「我が憂愁」の中で「母胎を出づる時、/ すでにわれは憂愁とともに生まれ、/ われは憂愁とともに生きたり。」と悲哀に満ちた自分の宿命を嘆いている。それをこの詩では第3連で「『過去』よりきたる悲しみの烙印」を刻まれた顔面と「雪に埋もれて燃え、荒きすすり泣きの声」を発する霊というように感覚的具体的に表現する。しかし、この詩ではその「憂愁」を謳うところにとどまってはいない。第4連の「蒼白きあけぼのは今、来たらんとす」という詩句に注目すれば、そこに第3連までの暗鬱な人生を反転させ、新たな転生の時の到来を予感する姿が描かれていることを読み取ることができる。それは内から生まれ出る生の欲情であろう。生の欲情は今、悲しみの烙印の重圧にめげずに、鼓舞されなければならない。雪間を流れる水音のように、過去の長い辛苦に傷つき破れた霊は、激しく荒々しくすすり泣くばかりであるし、過去の哀しみは未来を語る気力を喪失させもした。精神の荒れ地に絶望の「木は屍の如く、空しく腕を交す」ばかりである。しかし、今、この荒涼とした沼のほとりに、ようやく曙が訪れようとして、漆黒の空の彼方にほのかな「蒼白い」明かりが広がろうとしている。幽暗から薄明へと移る世界は、彼の精神の蘇生の象徴である。
この詩が無傷で残されたのは、後に露風の詩の特徴ともいうべきこのような内部観照的な傾向の萌芽がみられることによるであろう。
(8) 内なる自然の構築
――白き手の猟人
太陽は、かがやく絹につつまれ、
終のほゝゑみは白く熱したり。
そは我らの上、
草木(そうもく)と恋との上に。
身は深き憂の中につゝまれて
すゝすり泣く風景の、
光の陰をさまよひたり。
君が手は何か探りし。
優しき胸の乱れたる草叢に、
黄金なす草叢に。
君が手はかくも告げなん。
『百合がつくりし塒の中
宝石の胸やぶれて
傷きし小鳥はそこに死したり』と。
かくて今、太陽は終りに呼吸(いき)す。
われらが野よりの小径に、
日は美(うる)はしき霊魂の如くにまた。
詩篇「白き手の猟人」は明治44年1月『三田文学』に発表された。この詩において、「あゝ君が手の猟人(かりうど)よ」と呼びかけられている「君」の実態は定かではない。それがもしかして恋人の女性であるかもしれないと考える手がかりを与えるのは、わずかに「そは我らの上/ 草木と恋との上に」の詩句によってである。この2行を佐藤房儀は次のように解釈している。
二行の並べ方は、まるで「我ら」が「草木と恋」であるかのような錯覚を起こさせる。 しかしこの並記によって恋する二人は、自然の申し子さながらに天然に同化し、太陽の祝 福を受けている。
彼はここで「我ら」を恋する二人と解し、この詩を恋の賛歌と受けとる姿勢を示してい
る。だから、「小鳥の胸が破れて死んだというのも、暗い滅びとしての死ではなく、純粋であったが孤独でかたくなな心が死んで、魂が恋人の手に委ねられたことを表現したものである」し、終連の「日は美しき霊魂の如く」という詩句も「太陽の光を野原に遊びたわむれるニンフのようにとらえそれが恋人どうしを祝福している」と説き、結局詩全体は「愛の結実」を主題としているという。「白き手の猟人」は、恋の猟人である恋人の白く清純な手の描
写で、「優しき胸」は相手の男の胸で、「小鳥」は恋の獲物ということになる。(現代詩鑑賞講座 第3巻 美を夢見る詩人たち 昭和43年 角川書店刊)また乙骨明夫は第2連について、「恋人の白くしなやかな手に何かを求めてやまぬ心のときめきを感じた表現であろうか。恋人の求めるものとは恋か、あるいはロマンチックな夢か。」という解釈を施し、「優しき胸」については恋心に美しくたゆたいゆらめく恋人の胸と解し、作者がそこに「小鳥の死んだ姿、すなわち美しく傷つきやすい心を見たもの」と述べている。そして「美はしき霊魂」は「作者がたとえひとときでも恋人と心のふれあいを見出したことで「大きな慰めと安息」を得たことの比喩であるという。(日本近代文学大系 53巻 近代詩集1 1972年)これによれば、乙骨の「優しき胸」は女の胸で、佐藤の男の胸とは逆の解釈ということになる。こうした揺れが発生する要因は、「君が手は何か探りし。優しき胸のみだれたる草叢に。」の詩句の曖昧な表現のせいであろう。
この詩を、例えばこの頃親しく交流していた森川葵村の「わかれの歌」(詩歌 明治44年5月号)の一節、「灰色の砂地と/ 無言の中に、/ 我心は汝の白き手につながれて、// 白き手はしなやかに/ 草茎のなかをすべりつーー」と比べてみると、露風の「白き手」は全く具象性に欠けていて、むしろ中性的であり、形而上的な印象を与える。葵村の「白き手」はそれに反して女の鼓動や吐息まで伝わってくるような生々しさを読み取ることfができる。この決定的な相違は、露風の場合、「白き手」が単に道具として観念的に使われているに過ぎないことによるのであろう。
雑誌発表時は「あゝ君が白き手の猟人よ」以下を第3連としている。そのほうが「あゝ」の詠嘆が、その前にポーズがあることによって、即ち沈黙の間が介在することによって、「身は」以下の第2連の回想場面から現在の状況への転換がなされていて詩の構成の意図がはっきりするし、「身=自分」から「君」への話題の転換も明瞭になるという効果もある。この第2連の記述内容は、「傷つきし小鳥はそこに死したり」というこの詩の主題の伏線になっている点で欠かすことができない。だとすれば、このメタファーを解く鍵は第2連に隠されていると見なければならない。
実はこの隠喩表現は、すでに過去の作品においても何度か使われていて、例えば『寂しき曙』に収められた「秋のをはり」では、「色黄なる小鳥は叢の中に死なんとするをよろこぶ。//見よ、すべてのもの温かき終を告げ、/すべてのものかがやけるを。」と、衰滅する晩秋の自然の点景として小鳥の死を歌っている。彼はこの小鳥の死について、「新しき象徴詩の話」(新潮 明治43年12月号)で喚起された不思議な心象の暗示であると述べている。それはとりもなおさず、彼自身の死生観を反映したものであったろう。ほかにも、「白き手の猟人」とともに発表された詩篇においても、「優しき死をば胸に抱き、/地平を過ぐる小鳥らは」(すたれし声)とか、「匂へる空に/優しき銀の陰影を消えんとす」などと歌われている。これらもまた彼の夢想の虚空にはばたく追憶の表象である。追憶は時に優しく、時にか弱く、時に死滅の予感の象徴として彼の意識の領域に夢のように浮かび、また影のように消え去るのである。
このように、詩想そのものは『寂しき曙』の世界の圏内に依然とどまってはいたが、詩のスタイルはかなり明確な変貌を見せ始めた。まず、詩の世界が現実の世界との照応を断ち切ったことである。例えば「秋のをはり」では晩秋の自然の情景と自己の内心の情緒とを融合させることで、抒情の統一を図っていた。そのために、晩秋の自然の雰囲気を詩の世界に忠実に再現しようと試みられている。使用されている言語の機能は、「小鳥の死」のメタファー表現を除けば一義的であり、文字通りの意味で使われている。「子猫の背」は文字通り「子猫の背」を指示し、「青空の光」は秋の空の澄明な光の視覚的表現である。ところが「白き手の猟人」で使われている詩語は、もはや状況の直接的な指示をするようには用いられてはいない。「太陽は、かがやく絹につつまれ/ 終のほゝゑみは白く熱したり。」 という擬人法は終連の「日は美はしき霊魂の如くまた」という直喩と呼応していて、「太陽」の意味内容は多義的なあいまいさの中にある。ここでは野の風景の写実的なレアリティ―を表現するかわりに内なる自然に目を向けているのである。詩集『白き手の猟人』の序で彼はこう述べている。
ただ私が是等の詩に於てなしたことは感動を形にして示さそうとすることであった。そのため私は、私に起ってくる出来事に就て、その出来事を直ちに記録しやうとは思はなかった。私は私に沸くもの、私自身を言葉にしやうとした。
露風がこの詩において試みたことは、まさにここで述べている自己観照の世界を純粋に主体的な形象化の過程で歌いだすことであった。「傷つきし小鳥の死」は、「光の陰をさまよひたり」との関連で推測すれば、過去の暗澹たる辛苦の日々を葬り去るという情動のイメージであろう。そして麗しい霊魂のように白く輝く太陽は、かすかながらに輝きだした人生の希望を暗示している。このように見てくると、「白き手の猟人」は、露風の詩にしては例外的に多様なレトリックを 駆使した作品である。柳虹は「この詩全体を包む雰囲気はまことに匂ひやかでその一語一句は宝玉のやうな美麗を保ってゐる」と評した。詩集 「白き手の猟人」を評す 詩歌 大正2年11月号)。いわば胸中に展開する死と再生のドラマをいかに詩として描くかに作者は苦心したかということであり、その方法として太陽が白く輝く野辺に坐する恋人同士のダイアローグという情景を考案したということである。しかしその方法はあまりにも装飾的であり、技巧的であったがためにレアリティ―が損なわれてしまって、たとえば「猟人」という用語は、「草叢」や「小鳥」や「探る」といった援護にかろうじてイメージの統合が図られているとしても、詩全体の主題の核とはなり得ていないのである。柳虹の表現は、そういう意味でこの詩の一面を評価しているのであるが、そうしたレトリックの乱用を次のように真っ向から批判したのは御風であった。「回りくどい訳詩、訳文の調子を取り入れて、自分の思を歌ふ露風氏の詩にオリヂナリティーのあるやうに思ふ人は、一種のイリユージョンに囚へられて居る人達である。私などが露風氏の詩の佳いと思ふ点は外にある。それは情緒の単純と云ふ点と、表白の素直と云ふ点である。」(5月の詩界 早稲田文学 明治43年6月号)露風自身もこうした詩壇の評判を意識したのか、この詩で試みたレトリック過剰の詩法を継続発展することはなかった。
(9) 詩篇「現身」の象徴性
明治44年9月、そのころ露風に心酔し毎日のように彼を入院先の病院に見舞った柳沢健の勧めで、柳沢の故郷の会津を訪れ、そのまま猪苗代湖畔の湖東館に逗留した。南国生まれの彼が病後の身でこれから寒くなる北国に向かったのは、しばらく東京を捨てて制作に専念したいと考えたからであった。「湖畔より」はその逗留先から『詩歌』45年1月号に寄せたエッセイで、その中には次のような自然観が述べられている。
読売文学欄の『自然は背景である』の筆者は近代人は決して自然に驚くことはないとある。自然に驚かないからさういふ事をいふの 。人間も自然も差別見を捨てて内部の「一」に感じて見ると可いのだ。感性もなく洞察もなく斯ういふ事を云ふ人が僕は厭だ。僕は子 供のやうな心地でゐたい。実感は一旦は僕を滅ぼしたが深く入って見れば其処には子供の世界がある。さうして自然は真実(ほんた う)の心を明して呉れる。自然の言葉ほどかたじけないものはない。
ここに述べられている自然観の骨子は、鋭い感性と深い洞察の力によって自然の奥秘を闡明することが詩人の仕事であるということである。常識や観念によって固定化された自然観を洗い落として、いわば私意を離れて自然の発するかたじけない真実の言葉に耳を傾け、自然と我が一体化することによって生ずる感動を言葉に移すのが詩人の使命だと露風は説くのである。その趣旨は「物に入てその微の顕れて情感ずるや句となる所也」という『三冊子』の芭蕉の言葉とかさなるものである。露風は詩集『白き手の猟人』の序でこう述べている
私が是等の詩に於てなしたことは感動を形として示そうとすることであった。そのため私は、私に起こってくる出来事について、 その出来事を直ちに記録しようとは思はなかった。私は私に湧くもの、私自身の感動を言葉にしやうとした。
露風は、その後もしばらく詩作から遠ざかって、もっぱら芭蕉の研究に没頭していたが、その一端は「現代文学と芭蕉」と題して大正元年11月21日から25日まで『時事』に掲載された。その中で彼は、芭蕉が対象者としての自然ではなく、自然の奥秘、自然の生命に忍び込もうと願望して、自然を洞察観照した態度を極めて現代的であると高く評価している。その後この自然観に対する考察を深めた露風は、『ザンボア』大正2年1月号に「冬夜手記」と題するアフォリズムを発表した。そこに「自然とは言葉である」という命題があるが、これは直前の「自然とは、内部の感動に与へた形に外ならない」を言い換えたもので、その「内部の感動」については、具体的には「自然を感じて驚く」ことであるという。驚くというのは、気づきであり新しい発見の喜びであり感動である。『ザンボア』明治45年6月号に発表した「現身」を鑑賞するに際しては、こうした彼の自然観を念頭に置くべきであろう。
春はいま空のながめにあらはるる
ありともしれぬうすぐもに
なやみて死ぬる蛾のけはい
ねがひはありや日は遠し、花は幽かにうち薫ず。
ゆるき光に霊(たましひ)の
煙のごとく泣くごとく。
わが身のうつつながむれば
紅玉の靄たなびけり。
隠ろひわたり、染みわたり
入日の中にしづく声。
心もかすむ日ぐれどき、
鳥は嫋びつつ花は黄に、
恍惚の中吹き過ぎて
色と色とは弾きあそぶ。
慕はしや、春うつす
永遠のゆめ、影のこゑ。
身には揺れどもいそがし
入日の花のとどまらず。
春はわが身にとどまらず。
ありともしれぬうすぐもに
なやみこがるる蛾のけはひ。
この詩の主題は、いうまでもなく「現身」である。この語の読み方は、「うつしみ」、「うつせみ」、「うつそみ」などが考えられるが、新作特集号にともに寄稿した北原白秋が『明治大正詩概観』で「現身」に「うつそみ」とルビを振っていることや親交厚き服部嘉香も「うつそみ」と読んでいる。露風との会話の中で「現身」が話題になったことも考えられる。「うつそみ」は万葉集にも使用例がある古語であるが「現身」では「隠ろひ」とか「しづく」「嫋ぶ」などの古語も使用されていることもあわせて指摘しておきたい。
ところでこの詩における「現身」のイメージは次のように提示されている。
わが身のうつつながむれば
紅玉の靄たなびけり。
隠ろひわたり、染みわたり
入日の中にしづく声。
心もかすむ日ぐれどき、
鳥は嫋びつつ花は黄に、
恍惚の中吹き過ぎて
色と色とは弾きあそぶ。
また、「身には揺れどもいそがしく」とも「春はわが身にとどまらず。」とも
詠われている。夕日が空をくれないに染めるなか、鳥は老い衰えた声でさえずり、花は盛りを過ぎて色あせた花びらは風に舞っている。ただしこの夕日はボードレールが「夕べの諧調」で描いた「自らの凍る血汐に沈みゆく」ようなおぞましさはなく、作者の情調と調和している。これらすべての情景は、混然一体となって、晩春の黄昏時の哀愁の情緒を醸し出している。しかしここに表象化された幽妙な美の世界は、作者にとって表現の目的ではない。「自然とは、内部の感動に与へた形に外ならない」と「冬夜手記」で述べているのに従えば、彼がこの詩で形象化したものは、作者の内部でとらえられた不思議な霊魂の影であった。白秋宛ての書簡で彼は象徴の世界に棲むためには地上的な一切の生活から解放された内部世界に霊を聴き、不思議の影を捉えなければならないと述べている。これはそのまま「現身」誕生の神秘を解き明かしている文章であろう。要するに「現身」が象徴的詩法によって形象化した世界は作者の内部に捉えられた不思議な魂の幻影であった。彼はその影の如き幻影を至醇な生命ともいい、永遠ともいう。「現身」を凝視すればそこには散り急ぐ有限な自然と同様な有限の自身の宿命を認知せざるを得ない。自然の中にあってみずからもまたその一部となって流動する存在である。しかし彼は流動し転変する有限性の生命の中に永遠性を直観する。それこそ「至醇な生命」であり霊魂そのものである。影の如く捉えがたく、それゆえになやましい至醇な生命の把握が直観による以上、これの表現は概念による固定化は不可能である。絶対は影の如く輪郭も持たず固有の性質を持たないにもかかわらず概念は世界の分節化と分析化を意図するからである。この詩の主題の明確さに反して表現が明晰さや明快さの対極にあるのはこれがためである。この詩において「霊」は「ゆるき光に魂の/ 煙の如く啼く如」き状態として謳われている。霊は煙の如く定かならず、認められ難い姿で、しかも認め得るものには認められる存在として、いわば解釈されるのを待っている存在としてあまねく「隠ろひわたり、染みわた」らせているのである。それはいつもこの地上にあるもの、万象とともにあり、万象に顕在している。芭蕉の言葉を借りれば「物の見えたる光」である霊を把握する力こそ露風がいう洞察力である。「現身」に謳われた霊は、この洞察によって見とめ聞きめられた「乾坤の変」たる現身の本質である。
「心もかすむ日ぐれどき」という詩句において、「かすむ」のは「心」だけではない。万象が春の夕もやの中で拡散し、輪郭を消滅させていくのである。それぞれの景物は半ば溶解しながら、おのおのは複雑に交歓しあっている。「かすむ」という語は、心身の統覚の支配力の減退現象でもあれば、外界の存在の独立性の欠如でもある。自他の存在はもうろうとした世界の中で一元化されていく。そしてそれらすべては生命の推移を前提として謳われ、隆盛から衰退へと向かう状況が描かれる。こうして、花鳥も人も夕日もそれらすべてが仮象としての「現身」と意識され、移ろいゆく生命の一瞬の姿が定着される。その象徴が「ありともしれぬうすぐもに/ あやみて死ぬる蛾のけはい」である。瞬時生成し消滅していくうすぐもに、これも瞬時輝きを増しすぐに闇の手に委ねられる夕焼けのはかなさは、永遠への願望を断ち切られ、悶死する蛾の姿そのものである。川路柳虹は「蛾のけはひ」は単に薄雲の比喩ではないと述べ、次のような説明をしている。
この「蛾」は「なやみて死ぬる」と云ふ句があってその情調を保ち、またこの一行は前の2行と関連して全体のムードを表はして
ゐる。(詩集「白き手の猟人を評す」『詩歌』大正2年11月号)
確かに彼がいうように第1連の表現内容は、終連とはるかに呼応して詩全体に「蛾」のイメージを響き渡らせているのである。「我身にとどまら」ぬ仮象としての春の生々流転の相は色即是空的な哀観の表象であり、「ありともしれぬうすぐも」は「春」と「なやみて死ぬる蛾」「なやみこがるる蛾」とをイメージ的に連合する働きをしている。「うすぐも」を介して「春」の無常性が提示される。露風はこの詩の発表の直後、『文章世界』8月1日号で窪田空穂の歌風を論評し、若し強ひて色彩を云へば、余りおぼろな、蛾にも似た調子が漂ふばかり」であるが」、その「蛾にもたとうべき幽暗な調子、素朴で、デリケートで震動へるやうな情趣は、ひとり芸術に於て最も尊重すべきものである」とのべているが、まさに「なやみて死ぬろ蛾の悩ましく幽暗なイメージが重ねられられることによって情調性が添えられるのである。この蛾は諸説あるような毒々しくまた美しい蠱惑的な性状がたとえられているのではない。る新古今歌人的な惜春の情を謳おうとしたのでもなく、春愁をテーマとしたものでもない。春の滅びの恍惚の景観はすべてイメージ的に「なやみて死ぬる蛾」に収束する。それは他ならぬ詩人の夢寐の世界に映し出された詩人自らの現身の表象である。彼は藤原良経の「夢の世に月日はかなくあけくれてまたは得がたき身をいかにせむ」という歌を評釈して「夢の世と感じ声調に、心を宿す、その超世的にして且つ又大処より現身を観じて詠じ来るところは、象徴の精神である」と評しているが、「色即是空的な哀観」によって眺められているのは、静観された外界の感覚的な再現ではなく、内観された自我の流転の相の表象であった。
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(10 ) 芭蕉論
「心持ちが複雑になればなるだけ、適切な言葉を発見することに苦心する。適切な言葉と云ふのは、暗示的な気分を含んでゐるものであって、象徴詩はそこに存在する」と露風は「新しき象徴詩の話」で述べている。喚起された不思議な感動を適切な言葉で暗示しようとする場合には、自ずから詩に美しい力をひびかせるものだというのである。したがって「象徴詩は議論から生じたり、企てられたりするものではない。」という。これは明治43年12月の『新潮』に発表されたエッセイの一文である。11月には第3詩集『寂しき曙』を博報堂から刊行したばかりのころである。ということは『寂しき曙』の詩篇は、象徴主義的な詩法を意識して作られたということができる。その点においてこの詩集が抒情的な第2詩集の『廃園』の世界と大きく異なった様相を示しているといえるのである。しかし、ここに収録された詩篇が、露風も断っているように、いわゆるマラルメらが主張しているようなフランス象徴主義の手法に学んでいるわけではない。「技巧としての象徴詩を論ずるものの有るのは愚の話だ」と述べているように、彼が主張している象徴詩とは、先の引用にも使われていたように暗示的象徴主義といっていいものである。フランスの象徴主義が思弁的で観念論的なのに対して、露風の考える象徴主義は自己の体験に基づき、それを情趣的感情的に暗示する象徴主義であるということである。その点において彼の方法は伝統的な美の表現方法と非常に近似していた。
詩集『幻の田園』の自序で彼は次のように自分の立場を明確に述べている。「象徴は仏蘭西から移入されたといふ説は一応私も肯定する。しかし其精神に於て、必ずしもそうではない。ヴェルレーヌ、マラルメの徒のみならず古き日本の芸術は此精神に胚胎して生まれてゐる。私はこの日本の伝統の精神にゐることを喜ぶ」と。ここで彼が「其精神」と言っているのは、いうまでもなく19世紀末に起こったフランス象徴主義運動における狭義の象徴ではなく、芸術一般における本質にかかわる技法としての広義の象徴を意味している。その上で彼はその広義の象徴主義の技法を暗示法と捉えて、日本の伝統的な芸術がこの精神に根差しているといって、観世父子㋨能芸、雪舟の水墨画、利休の茶の湯、俊成、定家、西行らの歌人に共通する幽玄美の世界を例に挙げ、さらには近世の芭蕉の俳諧の寂(さび)の美意識について論じている。芭蕉もまた「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一つなり。」と『笈の小文』で述べている。彼の俳諧の道もまた彼らが求めた幽玄の精神に連なるというのである。
露風が芭蕉への関心を強く懐き始めたのは、明治45年ころと思われる。明治45年5月、北原白秋あての書簡で、「木陰で芭蕉の句に読み耽る。願くはこの詩人のやうに詩の三昧境で果てたいと思ふ。」と記しているが、そうした芭蕉への傾倒ぶりは、大正元年11月の「時事新報」に5回にわたって掲載された「現代文学と芭蕉」において、うかがい知ることができる。
ない 正岡子規は「俳人蕪村」において、芭蕉のように寂とか幽玄というような美意識を理想とする東洋の美術文学は消極的な美意識だと批判し、新しい芸術はむしろ蕪村のような艶麗,雄渾、活発 などの西洋芸術の積極的趣向を凝らした美意識を重視すべきだと主張した。さらに俳句における複雑的美や精細的美、客観的美について論を進め、いずれにおいても蕪村の技量は芭蕉の及ぶところではないと極言した。これに対して露風は、蕪村の句は写実的で色彩があり、官能に富んでいるが、あくまでも蕪村の世界は外延的に拡大しているだけで、官能の把持力、官能の精神にまで及んでいないと反論し、芭蕉の情趣は、自然と自分との表面の接触ではなく自然の奥秘に忍び込み、霊魂を示すまでになっていると芭蕉の象徴的な詩法を高く評価する。
露風は、「評論三則」(『詩歌』大正5年2月号)でも両者の暗示の方法の違いについて論じていて、芭蕉の暗示は精神の運びであるが、蕪村の暗示は官能の印象であるという。即ち「芭蕉の表してゐるものは『内』からの世界である」が、「蕪村の物は外に見出す興趣である」というのである。そして「霊感より来る暗示には朽ちない物がこもってゐる」のに反して、「興趣を初めよりする暗示は時と場所と物との雰囲気を示すにとどまる」と批判した。芭蕉の興趣はそういう意味で同じ感覚でも感覚の精神であり、感覚の把持力であるというのである。
露風が大正初期に芭蕉に傾倒したのには、彼自身の性情からの親近感が大 きく関係したのであったが、当時の詩歌の世界の動向も見逃せない。即ち明
星派の運動に代表されるローマン主義の隆盛である。なかでも北原白秋 によってもたらされた耽美的世界は、詩壇にとって衝撃的な驚異であった そこには一言でいえば子規が求めた「艶麗
、活発、奇警」などの多彩な積極的美の世界が充満していた。まさにそれは「寂といひ雅びといひ幽玄とい ひ 細みといひ以て美の極となす」伝統的な美意識と対照的な世界の
現出であった。露風はこうした別の言葉でいえば、エキゾチックで、人間の本能を開放するローマン的な風潮に対してあえて異を唱え、子規が消極的美といって貶している、
中世 から近世に貫通するストイックで宗教的な世界観を信奉する道を選んだ。
露風はまた、「象徴詩と芭蕉」(大正2年10月、講演)、[行くべき道 」(『現代詩文』大正3年4月号)「調和の人」(『国民文学』
大正3年 12 月号)などでさかんに芭蕉論を展開したが、そのほかにも芭蕉の研究を目的とした集まりである「 桃青会」への参加など
あげられる。この会には後に『俳諧七部集 』(朝日古典全集昭和25年)を著す俳人・ 萩原羅月や東京大学で芭蕉を論じた沼波瓊音集、
阿部次郎などが参加していた。「6月の日記」(露風全集第3巻所収) に は大正8年6月10日、11日の会合では芭蕉の少年時代 に ついて議論をしたことが記されている。また『未来』(大正4年2月には、「芭蕉評伝の稿が済み次第 白き手の猟人以後の詩を整理に
かかるという記事が見えていて、日頃の芭蕉研究の成果をまとめて出 版する計画を懐いていたことが分かる。
事実、『幻の田園』(大正4年4月刊)の末尾には『芭蕉評伝』と『校訂芭 蕉全集』の近刊広告が掲載されている。それによ
ると評伝は、先見を捨てて独創の見地に基づき書いたものであり、全集は久しく芭蕉の生涯に私淑 憧憬した露風が群書を渉
猟 して編んだものだとうたっている。しかしこの 両書は残念ながら実際には発行されなかった。
しかしながら評伝の方は、「芭蕉評論」昭和4年8月と表紙に記された草稿 が、霞城館と三鷹市に残されている。霞城館の「芭蕉
評伝」は家森長次郎 氏 が復刻している。(「三木露風の『芭蕉評伝』草稿」武庫川女子大学紀 要第32集 1984年)。三鷹市
所蔵の草稿は霞城館の草稿の最初の部分に重 なるが、かなり省略された箇所がある。霞城館の草稿はノートに記された もので、約6万
語に及ぶ。それは400字詰原稿用紙約500枚に相当する。まさに長文である。先の広告文では、四六版6百頁とあるが、これが
大正 4年の評伝と同一 のものかどうかは判断できない。推測するに部分的に書き 直されているのではないかと思 われる。
家森氏の復刻版によれば「芭蕉評伝」は第24章で終わっている。完結し たかどうかわからない。露風の記述に従えば第17章
までが「伝記双びに 芭蕉の俳諧 の心境の考察と批評を主とした」部分であり、それ以降が「芭 蕉の俳諧の本質をきはめ 比較的詳 細に論評」したものである。
芭蕉の俳諧に対するまとまった評釈は、「貝おほひ」からであり、序文 と3番までは判者としての芭蕉の批評を主に論じている。 序文については「かなりよく書か れてある。殊に文体としてよい。そこに又彼が伊賀に於 ける生活の高い調子が、暗々に表はれて ゐるのだ」と彼の素養の高さとと もに、韻文的な調子に注目している。そして「貝おほひ」は、貞徳と宗因 の影響を脱し切れ
ていないが、独自の情味 が込められていて、初期詩集と しては上等の方だと評価している。その一方で「江戸三百韻」は江戸 の卑 俗な気分を主にして詠まれた 句が多く風雅の心が感じられず、芸術性 が乏しいと言わざるを得ないと痛烈に批判している。
露風によれば、芭蕉が蕉風に目覚めたのは『野ざらし紀行』においてであるという。特に「野ざらしを心に風のしむ身かな」と「雲
とへだつ友かや雁のなき別れ」 のの句をあげて、「見ちがへる様にすぐれたる面目を示し」ていると評し、さらに「雲しぐれ富士をみ
ぬ日ぞ面白き」の吟詠は幽玄の趣を表していていると称賛してい る。
露風は次いで『野ざらし紀行』以降、『奥の細道』までの紀行文と落柿舎、幻住庵での生活と臨終について略説しているが、芭蕉の旅
の意義については、次のよう に論じている。
芭蕉と旅行は関係が深い。旅なければ芭蕉の大部分の価値は生まれなかったであらう。句は元より文もさまでにるべきものがなかったとおもふ。彼は造化にしたがひて造化にかへるといってゐる。自然にあり、自然にしたがひて帰る即ち死ぬることを意味したであらう。
と述べ、とりわけ、『奥の細道』については
芭蕉の紀行文中最も長いものであると共に、その白眉とすべき ものであらう。且つ又その旅の長いことと難渋したことに於て、 彼 の人生と旅行との上から見て、最も意義の深いものであらう。
従って俳諧修行ともいふべき、芸術上の目的に対しても大いに得 ると ころがあっに違ひない。この経験を基礎として彼の俳諧の道 も、益々深くなって行ったと思はれる。
と、芭蕉の人生観や芸術観の形成に及ぼした影響の大きさについて説いている。
評伝の後半は、主に芭蕉七部集の連句の短評を試みている。その際、芭蕉俳諧を論ずるに際しては、彼が生存していた頃に強い影響を受けた先輩俳人の業績について論じている。特に西山宗因の談林風と松貞徳の貞門俳諧を重視して、その影響関係を比較対照しながら論を進めている。
特に注目すべきは、宗因の俳句に対して露風が高い評価を下していることである。例えば、
言の葉の遠山つとやほととぎす 宗因
花の木の間のやや茂るころ 正方
について、これは機知に富む句だが、すらすらと解することによって一層よく作者の心が伝わってくる。そして「ほととぎす」に宗因らの俳諧道の寓意的表現を込めて、「景趣のままに力強く、しかもすらすらと渋滞なくよんでいる。」こういった句法は巨匠でなくてはかなわないことだと述べ、正方の付句についても、「よく上句に照応して情趣を表現している」と称賛している
これに対して、芭蕉の『冬の日』や「春の日」の連句は、
袂より硯をひらき山かげに 芭蕉
ひとりは典侍の局か内侍か 杜国
を例に引いて、「冬の日」にあらはれた芭蕉の句は、概して言うと詰屈晦渋で見るべきものないと酷評している。それのみか今日芭蕉の代表的な名句と誰もが推奨する
古池や蛙とびこむ水の音
についても、この句に禅意があるというような鑑賞の仕方をするが、それについて、芭蕉自身の本意が定かでない以上勝手な解釈をすべきではないと戒めている。また、
雲折々人をやすむる月見かな
については、これは佳句ではあるがそれほど優秀であるとは思わないといい
馬をさへながむる雪のあした哉
については作為技巧のあとが見えて劣っているといい、
父母のしきりに恋し雉の声
は、声調がよく、情味に富んでいる句であるが、平凡で別段とりたてて称賛するに当たらないと評している。
こうして六部集を一渡り論評したのち露風は、改めて宗因の俳諧について論じて「うるはしくして、さだめがたく鷹揚にして繊細、渾然として、わざとらしからぬ天衣無縫の配合」など詩の諸性質を一つとして含まざるはない」と絶賛し、宗因の独創的な風雅の趣について、もっと関心を深めるべきだと主張している。
(11) 豹変する自然
大正2年10月末、露風は新しい詩の会の創設を詩友服部嘉香に相談する。その場で同人を2人のほかに川路柳虹、森川葵村、柳沢健、西條八十、灰野庄平の7人とすることなどが話し合われた。その後11月3日、京橋区南鍋町のカフェー・パウリスタで第1回の会合が持たれた。参集者は前記7名のほかに、加藤精一、森英次郎であった。その席で年四回発行することは決まったものの会の名称については、「緑室」「緑炎」「緑燈」などの提案があったが結局決まらなかった。「僕が階段をのぼって、その二階の緑のカーテンのある小さな特別室へ入った時の記憶─それは、およそ交遊といふ経験の少ない僕の、年少時におけるいちばん楽しいものとして鮮やかに残ってゐる。面白いことに、少年の僕の幻想は、この夜の会合を、あの有名なステファン・マラルメの『火曜日(マルディ)』と結びつけてしまった。中央に泰然と椅子に掛けてゐる露風氏がマラルメその人であるやうに想へた。」これはその日露風に誘われて出席した西条の感動に満ちた印象記の一節である(「三木露風氏の想ひ出」 『蝋人形』 昭和13年9月号)。22歳の大学生は少年とは言えないが、西条にとっては詩人の仲間入りの第一歩であり、生涯忘れることができない一夜の情景となった。ちなみに「緑室」などの誌名はその二階の緑色のカーテンにちなんだものという。
11月11日嘉香と連れ立って代々幡を散歩した折、露風は誌名を『未来』とし翌年一月発行することを伝えた。そしていよいよ12月12日、鎧 橋の近くのメゾン鴻の巣で第二回の会合がもたれた。参集者は新たに山宮允、新城和一それと東雲堂書店主西村陽吉が加わった。ほかにドイ ツ留学中の山田耕筰、斉藤佳三、郷里にいた増野三良や田中喜作が名を連ねている。このうち葵村は『未来』発行の前に離脱し総勢10名の 同人での船出であった。
いずれも25歳の主宰者の露風を中心としていくつも歳の差のない少壮の音楽家や西欧文学の研究者たちによって結成された運動体であった。若い同人のほとんどが東大の学生であったのは、柳沢が構内で行った呼びかけ応じたものであろう。
機関誌『未来』は大正3年2月に西村陽吉の尽力で東雲堂から発刊された。370ページに及ぶ大冊は露風の強い意気込みの表れであり、同人たちの広範な訳詩や創作はさぞかし詩壇に強い衝撃を与えたことであろう。
未来社の目的は、題言によれば在来の自然主義の「桎梏中より吾人の精神を取返し」て新たな理想主義を切り拓くところにあった。川路は巻末の「フラグマン」において、より端的に「吾らは悉くAnti-Naturalismの傾向にある」と同時に「吾らの享楽主義は過去ではなく未来にある」と宣言し、さらに「next generation に生きる心を願ってゐる」と抱負を述べている。社名の「未来」はこうした願いをこめて命名されたのである。おりしも西欧の「未来派」が新たな潮流としてわが国にも伝わってきた時であったが、この流れを意識したものではないと柳虹はわざわざ断っている。同人たちはみな山宮允が言うように「自ら象徴主義の闡明者並に実行者を以て任じた」者たちの結集体であった。露風自身も象徴主義を唱導していた関係から、詩壇には象徴主義の牙城という印象を強く抱かせた。
『未来』の内容は、詩篇はもちろんだが、そのほかにも小説、それぞれの研究分野を反映した訳詩や評論の翻訳などが誌面を満たした。なかでも柳沢のランボーの「酔ひどれの舟」は、原詩からの初めて翻訳であり、ランボー受容史の上からも注目すべきものであろう。
2月21日に未来社主催の「山田アーベント」が開かれたことも特筆すべき活動であった。これは山田耕筰のドイツからの帰朝を祝して築地精養軒で催されたもので、露風の「歎」「ふるさとの」などに山田が曲をつけたリードの歌唱と三浦環、外山国彦、船橋栄吉による歌劇の一節などが演奏された。
山田は『自伝 若き日の狂詩曲』(講談社 1951年)でこれらの詩に曲をつけた事情について次のように記している。
7月27日(1910年)の夕食後、宿の側を流れるシプレェ河に添うてしずかに歩き、リンデの樹陰に座った。手には『廃園』があった。私はただゆるやかに流れ去る水面を見つめていた。その時、私は何を考えていたかは覚えていない。しかし、口は知らぬ間に、露風の詩「歎」を歌っていた。多忙と懊悩に閉ざされていた私の心は諦観の寂光に照らされ、さみしくも歌い出でたのである。こうして露風の巻に収められた「歎」につづく、「風ぞ行く」「異国」「燕」「ふるさとの」等一連のリィトは、ほとんどシプレェ河辺で書き綴られたのであった。
歌手の外山、三浦、船橋はともに東京音楽学校出身の新進音楽家であった。山宮は「曲のみか場内の空気も誠に気持の良い、良い音楽界だったやうに記憶する」と回想している。(「未来」と未来社の人々 『日本文学講座』第5巻 改造社 昭和9年)
5月に刊行された『未来』第二集も、280ページという大冊を誇った。前半に訳詩を集め、後半には主に詩や評論などの創作を集めた編集で、第一集よりも整然としている。引き続き山宮、灰野、川路、新城、西条らが意欲的な作品を発表し紙面を充実させた。さらに新たに田中喜作の絵画論の翻訳、柳沢の音楽論、斉藤佳三の随筆、小山内薫の小品などが加わって、当初の目的である芸術雑誌としての体裁を保った感がある。しかしながらこれらの試みも長続きせず、『未来』第3集の刊行もなされぬまま終わってしまった。
山宮は廃刊の原因について、多くの同人雑誌と同様、当初の熱意の徐々の冷却、同人の感情の疎隔、資金不足などを挙げている。
竹内勝太郎あての書簡によれば、露風は9月から新たに月刊の『未来』を刊行する構想を抱いていたようである。この中で彼は日々の生活を通して自己の精神の発達と増大を念じて、歓喜の道を歩まなければならないと語っているが、これは第一次の『未来』の題言でも強調されていた刊行目的の継承である。実はこうした世界観なり人生観は、脱自然主義を標榜した大正初期の文学運動に共通にみられる「新理想主義」や「新現実主義」は「白樺」「三田文学」「新思潮」に寄った作家たちのエートスを捉えた思想であった。彼らはこぞって現実生活の対応において急速に精神的主観主義に軸足を移して、精神主義に基づく新人生観を唱え、日常的な実践の過程で生の充実を確立することを主張するようになった。詩界においても白秋はこの時期を振り返って「深切に自己をふり返って」「人間の真実を求め」ようという思いに駆り立てた時期であった」述べている。(「明治大正詩史概観」『現代日本文学全集』第37巻 改造社 昭和4年)露風が題言において在来の自然主義の桎梏を脱して平俗の生活を精神的に充足し増大させることを目的とすると表明した背景には、こうした思潮が強く反映したものと思われる。
9月刊行予定の第2次『未来』は、遅れて翌年1月に発行された.主宰者は露風、発行元は、露風の自宅に変更されている。応募作品は評論や短歌等にも広げ、詩歌雑誌の体裁を持たせた。しかしこの二次も2号を2月に出して廃刊となった。二巻を通し執筆者は第一次の服部嘉香や川路柳虹などの旧同人たちもいたが、新たに前田鉄之助を筆頭に、霜田史光、鯖瀬春彦、長瀬先司、竹内勝太郎ら新人たちの作品が掲載されるようになった。他に蒲原有明、窪田空穂、河井酔茗らの名がみえるのは露風が寄稿を仰ぐことで、誌面に重みをもたせる策であったろう。また一高短歌界の詠草や芥川の短歌が掲載されているが、これは、山宮の寄稿要請に応じたものであろう。特に注目されるのは川路の「詩歌月評」である。彼はここで一貫して辛辣な批評を展開して見せたが、とりわけ白秋については「詩人としての洞察が浅い」といい、犀星、朔太郎、暮鳥らにいたっては「やくざな詩である。瓦である。霊を失った詩である」と酷評し、口語自由詩の主導者であった福士幸次郎の詩については「単純で荒けづり」だと評した。いわば当時の詩壇の勢力のうち二派に対して未来派から攻撃を仕掛けたような記事内容であったわけで、やがて彼らが一団となって未来派を攻撃する発端ともなったものである。
大正6年1月、露風の提唱する象徴主義を信奉する門下の新進詩人の要望を受けて露風は詩誌『未来』を復活した。各号30ページ程度で純然たる同人誌であった。以前からの協力者である灰野庄平や服部嘉香以外に、喜志邦三、霜田史光、北村初雄、二宮典美などが発行を支えた。この第3次の『未来』は9号まで毎月刊行されたが、10月休刊し、11月10号を刊行してその後廃刊した。
大正4年7月、露風は詩集 『幻の田園』を刊行した。大正2年の秋から大正4年5月頃まで、主に『未来』に発表した作品を集めている。装幀および挿画は『白き手の猟人』に続いて坂本繁二郎に依頼した。坂本とは挿絵画家岡落葉が主宰する青芝会という詩人や歌人の集まりで知り合い、親しくなった。露風との交友について坂本は次のように語っている。
露風の名前は、北原白秋と肩を並べて当時の新聞雑誌に出ていたものです。お互いに無口なのがきっかけになったのでしょうか、露風は私の作品も知っていて、次第に話が会うようになりました。
そのうちにお互いの家にもよく行き来する間柄になり、時に連れ立って九段の華族会館にある能楽堂で能の鑑賞をしたりした。
私より七つも若く、それにしては幅広い知識と素養を持っていました。私の胸にたまりながら表現し得ないでいることを、的確にこ とばにしてくれたのも露風です。幻想と象徴に包まれた演劇のなかに、”東洋の心“の真髄を私にわからせてくれたのも露風でした。絵の制作の上に、どれほどプラスになったかわかりません。(『私の絵 私のこころ』 昭和44年 日本経済新聞社)[i]
坂本はその頃「自己感情の遊楽」としての絵画に満足できず、なんとかして鑑賞者をして「筆者の感情と融合して礼拝の美に酔わ」しめんとするような絵を描きたいと悪戦苦闘し、制作と模索を繰り返していた。そうした時期の露風とのめぐり合いは、坂本にとってこの上ない幸運であった。詩集の序文にもある「物は、はっきりとした中に玄致を具へてゐる」という露風の信条とも言うべき自然観は、坂本の制作態度に示唆を与えずにはおかなかった。その表れを有名な初期の代表作「うすれ日」に見ることができる。夏目漱石の評語「考えさせる」「奥行き」とは、まさにこの玄致の世界といってもよかろう。坂本は後年、この絵に目標の一端を盛り込むことができたという自負を述べ、自分の画業の将来に確信を持つ契機となったよろこびを素直に表白している。
『幻の田園』の収められた作品の多くは、結婚を機に居を構えた池袋郊外の自然が詠まれている。
牛はあゆむ
日の落つるくだり坂を、
あかきころもの霞被て
額のあたり耀よ ひつ。
拡ごる風の、吹き入りて
痕とどめたる雲の色、
薫り豊にそことなし
日も穏どかの下り坂。
首突きいだしおし黙り
目は一心に泛べたる
何か床しき蓮華さう、
それと知らるるくだり坂。
あゆみの練りや、角光る
疲れごころの砂ぼこり
さみしき雲も一入に
しみて耀やくくだり坂。
菫が咲いている野道の下り坂を一日の農作業を終えて牛が帰ってくる田園風景を描いた作品であるが、不思議と現実味を感じさせないのは、牛を引く農夫を初め、牛車などの付属物をいっさい省略して、牛そのものを画面の中心にクローズアップして描いているせいであろう。夕日に染まる野辺の奥から現れ出でたような、後光に照らされた牛の姿はまさしく崇高な宗教画の一幅を見るような効果を読者に抱かせる。西条八十が『詩の作り方』(雄鶏社 昭和22年)の中で評しているように、「天啓を齎らした或る使僧のやうな感じ」や「或る超人間的なもの、崇高なるもの、非凡なるものの啓示」がそこに暗示されていて、「或る荘厳な感銘を読者の胸に残す」ように意図された作為が十分に読み取れる詩篇である。
このように絵画的な画面構成によって眼前の自然界を幻視的に異化させる技法は『幻の田園』全体の基本的態度であって、たとえば冒頭の「春」では、郊外の風景全体が教会の祭壇か寺院の伽藍に見立てられていて、俗な世界を聖なる世界に異化させている。また岡崎義恵が集中の代表的傑作と推奨する「雪後」では、銀灰色に耀く薄暮の村落の情調を描きながら、主題は雪後の幽趣に感動した「詩人の神秘的な法悦の境」を述べるところにある。露風は『幻の田園』の序文で「物は、はっきりした中に玄致を具へてゐる」と述べているが、その意味するところを露風は次のように説明している。「私たちの表現物は、この世ではただの物であるから、私たちの心的情緒の目ざめた場合にもただの物を攫む外はないのである。併し、それにも拘はそのものの意義においては全然一変してゐるのである。此豹変こそ詩の目的である。ただの物がただの物でなくなり、同時にただの物でもある豹変――この隠密な豹変を行ふ者が我々の内性と呼ぶ心的情緒である。(「詩作の傍より」『詩歌』 大正5年8月号)。ここに描かれた牛はまさに作者の内的情緒により豹変を施され神秘的な幻の田園風景といえよう。この詩に添えられた菫草も早春の野辺の風景という眼前の世界を提示しつつ、しかもその存在は、虚の世界に溶け込んで、聖なる香りを発しているのである。
(12) 自然観の変質
『我が歩める道』において、露風は次のように記す。
私は、大正九年に、北海道のトラピスト修道院の講師となって、同地に赴任した。それより前私は三度、修道院を訪ねて、同院とは親しくなってゐた。赴任したのは、初めて訪問してから六年を経てゐた。即ち大正四年の夏、私がトラピスト修道院に行って三週間程ゐたことがある。其時の印象を歌ったのが、彼の私の詩集『良心』(大正四年出版)である。
再度の訪問は、大正六年で、三度目が大正九年の四月、さうして四度びが同年の五月で、招聘を受けて、修道士の為めに、赴任したのである。
その第1回目の修道院行の動機について露風は「良心の後に」で、こう説明する。
二十四五歳の比、予は苦がい懐疑と共にさすらうて居ったが、其頃ふと足をとどめた東海道の或町で独逸人の宣教師ピリン、伝道師の水田為一の両氏と知り合いになり教会に行ったり又キリスト教の書籍を読んだりした。トラピストに関する智識は其時初めて得たので、予は然ういふ折柄是非共修道士にならふと思ひきはめたのであった。爾来志を果たさずに数年を経た。今日教会を離れてはゐるが神を求むる精神は別様の意味で自分の内に燃えてゐる。其故に余は屡々反省し、反省の度びに修道生活を思った。トラピスト修道院は、かくして夢寐に忘るることが能なかった。
東海道を巡礼者のような心持で京都まで旅に出たのは、大正2年2月の事であった。途中沼津に立ち寄り、3月初めまで1か月ほど滞在し、その間沼津天主公教会を訪問している。また、京都ではやはり1か月ほど滞在し、旧知の間柄である相国寺の文鼎和尚を訪ねている。3月26日付の友人内海泡沫宛の書簡には「しばらく足をとどめて仏説に心を傾け度いと思って居ります」(整理番号119)と記したが、5月14日付の竹内宛ての手紙では雑誌の編集の件で東京に呼び寄せられて、奈良で暮らす計画も叶わなくなったと記している。その時は特にキリスト教に限ったことではなく、仏教に対しても関心は強く、求道的な強い憧憬から隠遁生活の願望は、生来の厭世的な人生観とあいまって深く心の底に根付いていた。
その具体的な行動が、仏教寺院ではなく修道院訪問という形を取ったのはやや意外で唐突な印象を受ける。しかし、露風はこの頃、キリスト教に深い関心を寄せていて、聖公会神学院に聴講の許可を求めに行ったりしているので、露風にとっては必然的な選択であったとみるべきかもしれない。修道院という環境に身を置いて、実践的にキリスト教の秘儀を体験しようと思い立ったとしても不思議ではない。
さらにもう一つの問題が露風のトラピスト訪問を促した。それは煩雑な都会生活から逃れて心の安らぎを得たいという願望であった。函館に着いた夜の門弟灰野庄平宛の書簡にある「いつになっても心配が胸に残る。苦がい苦がい澱のやうなものだ。心の中に天地を求め安住せねば駄目な事、其れを何度感じてもキキメの無い大馬鹿者」という一句や帰京に際しての書簡の「こんな静かな晩に僕の心は千々に乱れてゐる」という書き出しの文や「海は荒れるだらう。あの波に安住なく揺られるのか何の期するところなくして君に会ふのをツライと思ふ」という一連の告白は、この隔離された楽園に魂の救いを求めたにもかかわらず、現実はそう甘いものではなかったことを思い知らされたことに対する露風の苦渋に満ちた悲嘆が込められている。露風は鬱屈する心の病を癒そうとして修道院を選んだ。『幻の田園』の刊行、『未来』の休刊で、人生に一つの区切りがついた時でもあるし、暑い東京を遁れて気分転換の静養場所としては、願ってもない選択であった。にもかかわらず露風の病める精神は治癒しなかった。露風は自己の精神修養の至らなさを自嘲気味に悔恨する。折角年来の宿願を果たし、修道院に生活する修道士や子供たちの純朴さに心を洗われる日々を送り、大自然の神秘に感動する事もあったが、心底に澱んだ苦悩から解放されなかったという苦い体験を引きずって露風は帰京する。『良心』の「独居」篇に収められた「別離」という詩で、彼は修道院で親しくなったタルシス修道士にも、「我には憂尽きず/海の上の小舟のごとく/安らかならじ」と苦しい胸の内を打ち明けている。
それでも露風は表向きには元気を取り戻したように見えた。帰京後の露風について門弟の前田鉄之助は「修道院での健康に溢れた静かな、瞑想的な、且つ礼拝の生活は三木さんを元気にしたらしく、暫らくは随分明るい、さばさばした気持ちのやうに受け取れた。夏から秋にかけては話題も多くなり寛ろげるようになってゐた」。しかし年も改まったころから、また不機嫌な露風に戻ってしまったという。(「詩と回想」13 『詩洋』昭和34年9月号。)
露風の日記の断片は、3月の20日から4月の9日まで『罪と罰』『白痴』『悪霊』など5冊、ドストエフスキーの小説を耽読していることを記している。ちょうど同じ時期に朔太郎も『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて、彼の場合はそれまで無神論者とか虚無主義者とか悪魔主義者とかいう類の人生観を抱いていたが、この読書体験を通して、「これほど愛の奇蹟に満ちた宗教はどこの世界にもなかった。私がおぼろげにも『神』とか『愛』とかいふものの『実在』についての暗示を得、いくぶん信仰らしいものを始めた」というほどの強い衝撃を受けた。露風の場合、読後感はつづられていないし、作品への反映も見られないので、その動機などは明らかではないとしても、修道院の神学に求めたと同じ心境でドストエフスキーに魂の救済を求めたであろうことは間違いないだろう。
修道院の1か月の滞在を終えて帰京した彼は、その記録として『良心』という詩集を刊行した。この詩集に接した詩壇は、一様に驚愕の声を発した。そこには今までの象徴詩人としての露風の姿が全く影を潜めてしまっていたからである。『良心』を手にした前田は、「一見今迄の象徴性をかなぐり棄てて素朴な抒情詩にかへったかに見える詩境と表現の変化と、そこに溢れてゐる異常な信仰への情熱に一種異様な気さへ」したといい、それまでの露風の作品には見られなかった「やや硬化したリズムと骨張った詩句」が用いられていることに強い違和感を抱いた。おそらく誰もが前田のような印象を受けたのであって、日夏耿之介はこれを『明治大正詩史』の中で「感情の乾固と言葉の凍化」と批判したのも、おそらく前田と同様に露風に対する失望感を表明したものであったろう。
確かにこの時期露風はふたつの難問を抱えていた。一つは詩作者としての情熱の持続の問題であり、もう一つは自然と自己との関係の見直しの問題である。
「生む人となるか、所産を評論する人となるか」を選択するなら、自分は生む人たることを望んでいるとして「生む一面を閑却して評家たることほど乾燥な、不毛な寂寞な、寧ろ無謀なことはあるまいと思ふ」(『詩歌』大正5年2月号)と述べて、詩作に携わることの重要性を強調した彼ではあったが、一面ではすでに、大正3年の暮に久しぶりに内海に手紙を書き「以後詩の道を説く人たらん」と告白している。作詩の数についていえば、大正3年2月『未来』に9篇の詩を発表して以降、翌年にかけて『三田文学』『文章世界』『マンダラ』などにわずかな詩篇を寄稿したにすぎなかった。それに代わって目に付くのは、詩評や詩に関するエッセイなどであった。まさに「詩の道を説く」ことに、人生の重心を移した露風の姿がここに観取される。それは、別の観点からいえば、これまでの創作活動の停止であり、新機軸の模索を意味している。詩論集『露風詩話』の刊行は、その具体的なあらわれであった。
『露風詩話』は主に大正3,4年に執筆した象徴詩論を収録したものである。詩に関する諸問題を象徴主義の立場から論議していて、詩の鑑賞や作詩の際の心得を説いている。またこれらを通して露風の象徴詩の作詩法も読み取れるようになっている。露風はこの詩論集を編纂することによって、象徴詩人としての自分の詩業に一区切りを付けたかったのであろう。
第2の問題は、自然と自己、客体と主体との関係について、長年抱いていた信念が動揺しはじめたということである。 彼の説く象徴主義は、「冬夜手記」にあるように「自然とは、内部の感動に与へた形に外ならない。」という自然観に基づいて展開されている。外なる自然を内部の自然の象徴とみなすことであった。彼は「象徴主義信条」において改めて象徴について「象徴は、更改であり、置きかへであり、心意の符号である」と述べ、「象徴詩は出来る丈け根源の神秘に近づかうとする全目的に対する美的努力」であるという。露風の場合、根源の神秘とは、超自然の形而上的な特殊な世界を意味していた。外なる自然を内なる霊魂の象徴と見る限りにおいて、彼の自然観は、どの宗教からも切り離されていた。自然に対する信仰は、その根拠を自己の内面に置いていて、自己完結的であった。「春」にしても「牛」にしても、その神秘性は彼の内部に生み出された神秘的な感動の反映であり、具体化された心象風景であった。ところがここに来て彼のそうした自然観に変化が生じてきた。外なる自然と内なる自然の一体性が失われ、従来から露風の思想体系を支えてきた物我一如の世界観が崩壊して、キリスト教的な神と我という二元的関係性が新たに露風の世界観として重視されてきたのである。これによって彼の象徴主義も変質を余儀なくされたことは言うまでもない。それにともなって彼の詩作に対する信条も改変を迫られた。その思想の推移を次のように説明している。
「半ば有り半ば無し」の中有が極地の短命なる美と信じ其れを愛して来たのだが(芭蕉も然り)僕の心に一層強い創造心の要求が有ることをだんだん自覚するに至って不思議に思はれ出し此傾向の詩作が進むにつれて前の信条に安ずる事が出来なくなり遂に荘厳心が枢要の流れとなった、僕は此間の経路では大分苦しんだのだ。前の心持の最も熟したのが「幻の田園」中の「途上」や「空の鏡」や「冬」や其他あの集の後半には入ってゐる詩又後の苦みを書いたのが「まどろむ人」や「荒野」や「緑の森」や「生ける宮」や「解雪」なぞだ。(『未来』大正6年6月号)
ちなみに「途上」と「生ける宮」を引用して、詩境の相違を見てみよう。
日も遠のきぬ
あかるき夕べの中
何かささやく。
黄金のふち赤らみ
人の数ちらほら
ほのに消ゆる。
既に亡き人も
今在る人も
面輪かがやき
いのち見ゆる。
旧るきも
あたらしきも
なべての道。
ここを下り
またのぼる
同じ階段。
人の数ちらほら
戯むれぬ
また失せぬ。
茫として
ささやき、ささやき
わが耳を搏つ。(途上)
この詩に詠われた夢幻と現実が交錯する世界は、まさに露風がこれまで追求してきた「中有」の極致を示している。心象風景は微妙に交錯し、その過程で「いのち」の輝きを認める。この「いのち」はいうなれば霊魂に他ならない。彼は時空を超えた霊魂の神秘に心を打たれるのである。ここに従来の露風の象徴主義の神髄が示されている。しかしその信条に安んずることができなくなった露風は、今新たに「僕の心に一層強い創造心の要求が有ることをだんだん自覚するに至って、」苦心の末に「遂に荘厳心が枢要の流れとなった。」というのである。そしてこの中核から出てくる「荘厳心」の欲求を詩作の生命とすることによって一層徹底的な象徴主義に到達することができたと断言している。従来の象徴主義が向玄的、登仙的であったとすれば、この新たな象徴主義は、全く対照的に向顕的、増盛的な精神に支えられているところにその特徴があるという。その典型として『蘆間の幻影』に収められた「まどろむ人」や「荒野」、「緑の森」、「生ける宮」、「解雪」などを挙げている。その中の一つ、「いける宮」は次のように詠われている。
今しも天は満ち満ちて
峰高き岩角と岩角との間より
弧状なす、そが胸を横たへぬ、
いとも、厳しく重く、ふくらかに
ああ天、この日の折たたむ翼
須臾、ここに憩はんと
望み見て翔りきたれる如くなり。
折り畳む片側は光にあふれ輝き
又他の一方面は杳かの陰に向けて
へし曲りつき入りぬ。
峰に黒める岩角は
天の真下に駄駄羅ふむ
(ああ雄々しきプロメシュース)
縛められて括られて
しかと突き張る、その胸を。
峰に黒める岩角を
天は優しく眺めけり
陣痛の光を以て温めて
力と、天の香りとを以て守らせて
かくて見よ、山々は
生ける殿堂と響くなり
善き、大いなる谿隈は
陣痛の唸きを以て
聖き真洞を造るなり。
ああ急げ、創れ、プロメシュース
黒き悲は遺らん
夕日の光、早も今
鱗なす天の翼に流れたり
風は峰をば吹き布けり。
露風が主宰する『牧神』の同人であった斎藤勇は、第三連を引用して、「この摂理の守りに対する感謝は、一身一命をささげさせる。雄々しきプロミーシュースのように、縛られて、括られても、その胸をしかと突っ張りつつ、天の真下に駄駄羅ふむ岩角も、今は単なる反抗の魂でもなく黒い悲の跡でもない『生ける宮』である。人は苦しまなければ偉大にはなれない。その境地に到達する時、詩は至誠と真面目との所産になる」と評して、「沈思苦吟ののちに新生面を展開した感謝の声」を象徴的に描いたものだと論じている。
確かに神の差し伸べる慈愛によって蘇る霊魂を象徴的に謳うこの詩は、力強く悲壮な意思と、宗教的な崇高と荘厳に彩られていて、斎藤が続けて述べている「マシュー・アーノルドのいわゆる『荘重体(グランドスタイル)』の素質を有する『蘆間の幻影』」の中でも、特に完成された荘厳美が感じられる作品である。これまでのような幽玄的な境地とは対照的に、向顕的、増盛的なダイナミズムに支えられて、詩句も明瞭な緊張感に満ちている。これらの点において、先にみた露風が新たに開拓した象徴主義を十分に発揮した作品ということができるだろう。彼は「『サウル』を読む」において、詩人の価値を玲瓏なる観念、深遠なる思想を形象に移して描写し、創作する能力だと論じ、「生ける宮」などの『蘆間の幻影』の詩篇で、そうした真の表現を試みたと述べている。この作品においては、神の救済といった観念的主題を多少とも美的形象に移しえた作品とみなしうるであろう。
ただ、露風の思想上の観点からすれば、他の作品にも共通して言えることは、ここに描かれている自然は、重ねていえば、反自然主義的自然ではないとしても、内的世界の象徴としての自然ではなく、明らかに摂理によって支配され、対象化された自然であるということである。しかもその自然はギリシャ神話における神の支配ではなく、キリスト教における神に支配された自然である。このことを自覚することによって、露風はあらたに自己と自然との関係の変換を強いられることになった。彼の悪戦苦闘は、この変換を容認するか否かにかかっていたといえるだろう。これらの詩篇から読み取れる詩的世界は、彼の内なる世界のゆるぎない信仰ではなく、外なる自然に対する信仰であった。その自然はキリスト教の説く神によって支配された世界であった。キリスト者と同様に露風もまたその世界に身を委ねることで安らぎを享受しようとする。「予は山林と海浜とかくも大きな自然の中に神を思ひ神に拠って生活するをよろこんだ。予は基督教の神が自然と一致せるを見た」と、「良心の後に」で、トラピストの生活を通して得た神秘的な体験を語っている。そうしてこの傾向は作品の上においてもますます顕著になっていく。
大正5年にも彼は、修道院の招きを受けながら、実現しなかった。竹内あての書簡によれば、むしろ彼の関心は京都や奈良への移住にあったようである。6年になって、第3次の『未来』が軌道に乗った7月、再度の訪問をする。7月11日東京を出発し、8月7日帰京している。1か月の滞在を経て下山した露風は、「自分の現在の生存といふことに対しても此世の虚偽と混乱とに対しても嫌悪を感じずには居られない人間である」ことを強く認識している自分を救済する唯一の道は、トラピストの修道士のように、神を崇め模倣するしかないと吐露していて、信仰心の深化をうかがわせる。
大正8年9月、『中央文学』誌上で、「二年、つづいて、夏行ったその修道院へ、今度は、冬──此の年の冬、是非行って見やうと思ってゐます」と希望を抱いていたが、結局それは実現したかった。その代わり大正九年の春、にわかに講師として赴任する話がまとまり、打ち合わせのため4月19日に出発し、5月1日に帰京する。そして、招聘を承諾した露風は妻を伴い、5月25日函館に向かうことになる。竹内あての書簡では、半年ばかり行くつもりのようであったが、結局、大正13年6月までの長い修道院生活となった。
彼がキリスト教に入信するまでの心の葛藤や苦悩や逡巡については『信仰の曙』(大正11年刊行)の序文でつまびらかに感動的に告白している。
十字架の意義を身を以て読まない間は、私は久しく公教(カトリック)に心を寄せてゐながら未だ信ずるといふことが言へなかった。しかも私をしてれを信ぜしめないやうにとする力が私にはたらいてゐた。その中には禅の修養にかかはる私の知識もあった。また私が一層神の教会に歩みを進めてから後、私の上にふりかかって来た大なる不幸。危害、艱難等はそれにも増して私を引離さうとする力があった。而もそれであったにもかかわらず若しもその不幸や危害や艱難がなかったならば、私は容易に回心がむづかしかったであらうと思ふ。何となれば希望は苦痛よりして生ずるからである。
衆のために尽して衆より害せられたとき、それが私の受ける試みであると考へられたとき、さうしてその中から基督の苦難を想ったとき、わが眼に涙のあふれたとき、ああそのとき私は初めて基督を懐くことができた。
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(13) 童謡
露風が童謡を意識的に書き始めたのは、鈴木三重吉から創刊予定の童話童謡雑誌『赤い鳥』の童謡の選者と寄稿を持ちかけられた時である。その際、結論的にいえば彼は選者を断り、寄稿については承諾した。しかし彼が同誌に発表した童謡は、大正7年8月から大正8年6月までのほぼ1年間に、「毛虫採」「おやすみ」「しぐれの歌」など6篇のみで、その後『こども雑誌』が発刊されて選者を担当した関係で、彼の発表の場はもっぱら同誌に移行する。その後、昭和の初めまで400篇近くの童謡を制作した。それらは、『真珠島』をはじめとして『お日さま』『小鳥の友』などの童謡集として刊行された。その後の作品は『野菊集』『野山』『四季の歌』『雪』などの童謡集に収録されたが、これらは刊行されることなく、『三木露風全集』第3巻に収められた。これ以外にも未発表の原稿用紙に記された『花籠』『閑古鳥』などの童謡集が存在する。最初の3つの童謡集のうち作曲された童謡は、100篇近くである。その半数以上は山田耕作の手になるものであるが、今日リサイタルなどで好んで歌われているのは、「赤とんぼ」「野ばら」「夕やけ雲」「青蛙」「狸橋」「黒い坊さん」「海鳴り」など10曲ほどに過ぎない。これらは大正11年年までの初期の作品である。
『我が歩める道』には、30篇ほどの童謡が掲載されている。それらも主に大正11年までの作である。作者自身においても、評価に耐える作品は初期に制作したものに限ることを認識していたと思われる。分類的には、「海鳴り」「おやすみ」などの子守歌、「冬の歌」「宵闇」「山桜」「山づたい」などの追憶童謡、「麺麭の歌」「海の言葉」「狸橋」などのメルヘン的な童謡が主であり、その内容もリズムも、概して穏和で、躍動感に欠ける傾向を示している。その点、北原白秋、西條八十、野口雨情らの個性的な資質に基く童謡作品と比較した場合、見劣りがすると評価する論者が多いことも事実である。
そうした芳しくない評価を承知の上で、露風の童謡の表現上の特色を少し検討してみたい。
毛虫、毛虫、
栗の木の枝に、
毛虫が寝てる。
むく、むく、毛虫、
毛虫を落せ、
揺ぶっておとせ。
雨の露ぱらぱら。
毛虫もぱらぱら。
落せ、落せ、
落した毛虫、
雀にくれろ。
泥ん中へ埋めろ。
むくむく毛虫、
花の傍(わき)、匍匐(はつ)てゐる。
鈴木三重吉から1か月の猶予をもらって、『赤い鳥』第2号に寄稿した「毛虫採」である。子供たちがシラガダイウという大きな気味悪い栗毛虫を退治しようとする情景を写実的にとらえている。子供の遊びのひとこまを子供の心情に寄り添って巧みに描いている童謡といえる。
「u」の音の多用は、鬱陶しい梅雨の季節感と子供たちの鬱屈した気分を暗示した音声象徴の効果をもち、「a」の勝った最終行からは、子供たちのにぎやかで無邪気な喚声の響きが伝わってくる。また「むくむく」という擬態語の反復は毛虫自体の気味悪い動作と姿態を強く印象付け、3音と4音を基調にした全体のリズムは、子供たちのすばやく賑やかな言動を想起させるし、特に冒頭の「毛虫、毛虫」は、栗毛虫を発見した驚きの声をうまく映している。活発で軽快なリズムが子供たちの無邪気な好奇心をうまく伝えている。そして子供たちの自分たちではどうすることもできない恐怖心は、第三連の「雀にくれろ。泥ん中に埋めろ」という子供の遊び特有の残酷な発想によって表面化する。結句は、興奮状態から覚めて、ただだまって見詰めるしかない子供たちの無力感と嫌悪感が強調される。
こう見てくるとこの作品にも起承転結にのっとった露風の作詩法は生かされているといえる。十分に効果的な結句の妙は作者の計算されたものであろう。
結句の妙といえば、第4連で兎や豚が突然登場する「麺麭の歌」、同じく第4連で真紅な牡丹の花を描く「鷹の目」の手法などがあげられるが、ほかに「山桜」についてみてみたい。
白い桜よ、
ふるさとの、
山の峠の
茶屋に咲け。
茶屋で別れた
姉こひし、
町に奉公の
姉こひし。
なけよ、昨日の
春の鳥。
松と桜は、
残るもの。
桜の膚の
皮むけば、
ほろほろおちる、
春の昼。
()
結句に集約的に感傷の高まりを運び来る技法は、これも計算されたものというべきであろう。春の鳥に託された別れの悲しみの耐えがたさが桜の膚の皮をむく行為を誘発する。「ほろほろおちる」のは一義的には白い桜の皮であろうが、「おちる」によって強調される暗示は、涙であり、白い桜の花びらである。同時に耐えがたい別離の傷心の生理的な痛みである。
結句の妙に優れた才能を発揮した 西條八十が「あしのうら」で見せたような神秘的な神の象徴の世界とは異質であるが、露風もまた画竜点睛の技法を用いて、童謡の世界に深い人性の機微を描き出だした。
大正8年7月、女子文壇社から『こども雑誌』が創刊され、露風は童謡の選者を依頼された。ちょうどそのころ彼は3回目の函館トラピストを訪問して、小学校の講師となる決意を固める。このことは、子供を持たなかった露風にとって、身近に親しく児童に接する機会を与えてくれたが、同時に修道院の宗教的環境は彼の世界観そのものに決定的な影響を与えた。童謡に限っていえば、創刊号に発表された「真珠島」
にその予兆が現れた。
磯へ出て
青い貝をひろひませう
ここはさみしい真珠島
さみしい さみしい真珠島
磯で拾ふた何拾ふた
あアかいあアかい紅の貝
帆立がひや雀がひ
生まれながらの盲がひ
磯で拾ふた貝の数
糸につないで見たけれど
それにあの貝なぜ見えぬ
常世の歌をうたふ貝
ここはさみしい真珠島
さみしい さみしい真珠島
浜へ出てみりゃ風が吹く
足にや咲いてる 赤い薔薇
同時に掲載された「盥の中のお舟」が、幼児の想像力を喚起し、素朴な憧憬 心を膨らませようとする意図で作られたのに対して、この「真珠島」は、一目瞭然高学年の読者を想定したようになっていることが察せられる。
この童謡に関して言えることは、第一に「読むべき童謡」を意識し書かれているということだ。そのことは、必ずしも成功しているとはいえないが、七五調の間に四四調のリズムを挟んだ複合型の変則的リズム構成の採用や「あアをい」とか「あアかい」などの表記法によっても知られる。こうした表記法は白秋がつとに多用しているが、露風もこうした工夫によって「真珠島」は一層「読むべき童謡」としての性格を強めている。白秋は童詩について「静かに読み」「極めて幽かな感情の波動を心に響かせ」ることを主眼とすると説いているが、露風の童謡もその理念に倣ったものといえるだろう。
第二に、「読むべき童謡」と深くかかわって問題になるのは、この童謡が高い精神性を秘めていることである。この童謡は『真珠島』に収録される際に、大幅な書き換えが施されている。すなわち第2連では「あゝかい心の紅の貝/くらい命の盲貝/信で光る真珠貝」となり、第3連は「海の島数貝の数/貝はいろいろあるけれど/信は一つの真珠貝/信は一つの真珠貝」というふうに全く改変され、第4連では「来世の風にあこがれて/沙に咲いてる紅い薔薇」と結びの二句が書き換えられている。
初出では 「糸につないでみる」というように、いろとりどりの貝は遊びの対象であるのに対し、改作では「紅い心」「暗い命」というように比喩のレベルに引き上げられ、とくに「信の貝」は反復使用によってその重要性が強調されている。さらに「風」や「紅い薔薇」はなんの修飾語も持たず、さみしい浜辺の情景を描き出すのみである。「花は、はまなす、赤い薔薇。野原や、海の砂浜に、寂しく咲いた、はまなすよ」(「野の花」)とあるように、ここでの薔薇もはまなすと解釈していいと思うが、その位置づけは「常世の風」を思慕憧憬する存在としてのキリストの象徴に変容していることも注目すべき点であろう。
要するに改変の功罪は別にして、原詩の持つ具象性や抒情性はそぎ落とされて、ひたすら唯一の真実である神を求める信仰心に基づいた超俗的な精神が強く表現されているのである。
象徴的な童謡を振興童謡の最も恰好な表現形式であると固く信じていた西條八十は、この作品を評して、現世を一個の真珠島に喩えて、燃える情熱を語る紅の貝、無心の暗き生涯を語る盲貝など各人各様の生活の途を暗示しつつ、青き光を放つ真珠貝こそ信の貝なれとうたって、自己の信仰を披瀝したものと述べている。彼は、象徴的な作品こそ、作者の切実な感動を歌にこめた詩であるという解釈を試みている。彼は童謡運動の目的は「醜悪なる現在の環境に対する嗟嘆」や「より宏大なる実在世界に向かっての切なる思慕」を児童たちに伝えることであると主張している。その点において露風と八十は手法こそ異なれ互いに強く共鳴するところがあったのである。露風は童謡を作ることも詩を作ることも等しく自分を歌い自分を表すことだと『真珠島』の序文で明言している。こうした主観性の強い童謡が歌うことを目的としていないことは明らかである。「鷹の目」にもいえることだが、この「真珠島」はそうした意味で彼の世界観を感得させる童謡の好例であろう。
結句の妙という観点からすれば「赤とんぼ」の構成法もよく考えられている童謡である。この童謡は、よく知られているように初出は、『樫の実』の大正10年8月号で、「赤蜻蛉」の表題で発表された。次いで同年11月刊行の『真珠島』に収録する際、題名はそのままで内容は大きく書き改めた。さらに、13年11月刊行の『小鳥の友』に収録するにあたって読者層への配慮から題を「赤とんぼ」と改め、内容の表記に手を加えた。初出の「赤蜻蛉」は次のようになっていた。
夕焼、小焼の、
山の空、
負はれて見たのは、
まぼろしか。
山の畑の、
桑の実を、
小籠に摘んだは、
いつの日か。
十五でねえやは
嫁に行き、
お里のたよりも、
絶えはてた。
夕やけ、こやけの、
赤とんぼ、
とまってゐるよ、
竿の先。
これが次のように第1連、第2連が推敲された。
夕焼、小焼の
あかとんぼ
負はれて見たのは
いつの日か。
山の畑の、
桑の実を、
小籠に摘んだは、
まぼろしか。
わずか一か月ほどの間に、「山の空」を「あかとんぼ」に変え、「まぼろしか」と「いつの日か」を入れ替えたことについて、阪田寛夫は神業のような創造的想像力の賜物と絶賛している。彼は露風が12歳の時に作ったとされる「赤とんぼとまっているよ竿の先」という俳句との関連でそれを説明して、「最初に『夕焼小焼の山の空』があったから、十二歳で作った俳句の頭に『夕やけ、こやけの』をつけた第4節が成立ったのだし、、この第4節ができたからこそ、推敲時に第1節に「夕焼、小焼の赤とんぼ」の成句が導き入れられたのだ」と作詞の技術の機微について述べ、その上に立って「まぼろしか」を「いつの日か」の入れ替えの効果を「赤とんぼ」の出発点としての十二歳の時の俳句の重みも一層加わり、「まぼろしか」よりも「つながりがいい」と論じている。さらに第一連で「赤とんぼ」という主題を提示したことによって、第4連の「赤とんぼ」と響きあって印象が鮮烈になり、過去の幻影と現在の実景との重層性が一層強調されるという効果も生み出していると述べている・。作品の構成上においても、起句と結句の統一が図られている点も見逃してはならないし、第一連に関しては、「山の空」という限定的な表現を「赤とんぼ」に変えることによって、坂田も論じているように「夕陽が包み込む大きな世界を構成」することが可能となった。(「赤とんぼ」『群像』 平成4年1月号)
この作品については、露風は例外的に折に触れて何度か解説している。もっとも古いのは「『赤とんぼ』の思ひ出」『日本童謡全集』( 日本蓄音器商会 1937年)である。その後「あかトンボ」(小学生朝日新聞 1953年10月11日)、「赤とんぼのこと」(森林商報69号 森林株式会社 1960年7月15日 )などが発表された。そのほかに「『赤とんぼ』に就て」という未発表の記事が三鷹市所蔵の「ノート6」(1959年5月25日)も存在する。これらを通して露風は一貫して作詞の動機を、幼児期の懐旧特にねえやへの思慕の情を歌ったものと記している。このことについて彼は次のように具体的に説明している。
私の童謡「赤とんぼ」の作詞年代は、大正十年七月である。その翌月の『樫の実』に、発表した。/ おもひでの一つを童謡にしたのである。そのきっかけといふのは、作の中に、/ 赤とんぼ、/ とまって、/ ゐるよ、/ 竿の先。/ とあるやうに、/ とまってゐるのを見てから作ったのである。/ 発表したその初めは、赤蜻蛉と漢字で、記したが後に、分り易いために、赤とんぼとしたのである。/ 凝視するところがあると共に、歌ひ上げる心が作する時にあった。さう云へば、とんぼは、凝視してゐるやうである。/ おもひでといふのは、故郷でのことである。/ 私がまだ背に負はれるほどの小さい時であった。/ 生家でやとふてゐた子守娘があった。その人は近在の人であった。/ 或日、その娘が、私を負ふて、あるいてゐて、私はその背から、赤とんぼが、飛んでゐるのを見た。そのことである。/
これは「ノート6」からの抄出である。ここには、作詞年代、作詞の動機、表記の変更、子守娘の出身地、幼児体験の回想などが具体的に記されていて、おおいに参考になる。このことによって、詩の中の第1節「負はれて」の主語が明示されていないことから、常識的、体験的にこの主語は母親であるという解釈が流布していることの誤りが明瞭になるからである。
当時としては10歳で奉公に出て14歳まで勤めて実家に戻り、15,6歳で嫁に行くという習慣が一般的であった。露風の生家もそのしきたりに沿って奉公娘を雇ったのである。したがって親の離婚前にすでに「ねえや」が雇われていたことは十分考えられることである。ということは初出の「山の空」の解釈として、離別した母を恋しく思って西の空を眺めたというような説明は明らかに誤解である。すなわち露風の幼年期の情景の中に母もいて奉公娘もいたということになる。坂田もいうように、「歌い出すときに限れば、ここから早くもねえやの背中を感じる人はそんなに多くはない」し、だれしも母に負われた体験に基づいて短絡的に「負われて」の主語を母親と思ってしまうのは、無理もないだろう。しかし、竿の先に止まっている赤とんぼを凝視した時に想起されたのは、ねえやの思い出であった。それを第3連で種明かししたのである。そこからさかのぼって情景を吟味することを読者は課せられる。詩を作り、詩を読むということはそういうことだろう。
だから、安易に母親説を唱えることは作者の詩作の意図を蹂躙することになるといわなければならない。「凝視するところがあると共に、歌ひ上げる心が作する時にあった。」と露風は述懐する。歌い上げるというのは、第3連まで順次高まる回想的感情のことをいい、凝視するとは、眼前の情景を観照し、沈思する態度を意味するであろう。だから、第4連は「苦難多い人生を辿り、過酷な現実にさらされて不如意な生き方を余儀なくされてきた」作者の立場を背景に秘めて」眺められた「赤とんぼ」としてとらえられなければならないし、そのことを強く自覚したうえで歌わなければならないという、由井龍三が紹介する若き作曲家の解説(『日本の歌 ふるさとの心』 春秋社 2001年)は、十分説得力がある。「凝視する」からは、遠い郷愁から覚めて現実を見据える作者の冷めた眼を感得しなければならない。そういう意味において、この結句の世界と前の3句の世界とは厳しく区別されなければならない。
「赤とんぼ」を少年時代に愛誦してやまなかったという詩人の小野十三郎は、一歩進めて「現実社会と自己とのかかわりから生まれる、複雑な願望や想念をギリギリのところで歌い上げたもの」が、この童謡には潜在的に込められていると論じている。
要するに、「ふるさと」にまつわる思い出を歌う状況において、われわれは郷愁や慕情というような単なる感傷性のみに浸っているのではないのであって、逆に人間の本源的な純粋性を取り戻そうとする強い願望に駆り立てられているというのである。まさにそれは深刻な生の現実に直面した自己の内面をも「凝視」し、幼児期の純粋性をばねにして新たな生に立ち向かう固い決意を表明したものと受け取るべきである。
(14) 誠の道
大正13年(1924)6月30日、露風はトラピスト修道院を辞して上京した。ひとまず池袋近郊に仮住まいをしたのち、昭和3年(1928)7月、妻の親族から土地を譲り受け、現在の三鷹市牟礼に新居を構え、ようやく安定した穏やかな日々を送ることができた。「遠霞荘の記」によれば、「時は暑熱の激しき時候なれども、ここは幽閑にして涼気多く殆ど暑さを知らず」と述べ、また「田園の風光、清くして、涼気に富み、晴天の日には我が家のほとりなる武蔵野より遥かに富士山を見るを得てよろこばし」と記しているように、田園生活はすっかり露風に落ち着きと余裕をもたらしたようである。このような環境にあって彼は自分の半生を回顧すべく、自伝『我が歩める道』を執筆し、8月に厚生閣書店から刊行した。この作品を中心とした自伝の執筆意図は、自序で述べているように、思惟と制作との両面を描出するよう配慮したところにある。自序において「詩作しだしてから二十八年、私は芸術に精進することを少しもやめなかった」と顧みて、さらに「私の歩んだ道は一筋の道であった。その間にはいろいろの変化と思惟の推移とがあったけれども、根柢に於て私の志向は一つの道程だったのであり又今後も同一である」と確固たる信念を表明している。「私の歩みゆく道は、内観に於ては真理であり、感情に於ては、豊かな文芸の華である」とも述べて、求道者と表現者という宿命の道を推進していく決意をも新たにしている。
それでは、露風の後半生はどのような軌跡をたどったのであろうか。この後半生を便宜上三鷹時代と言わせてもらえば、この時代を単なる隠棲とか閑居という表面的な言葉で片づけてしまうのはどうかと思う。事実、この時代、彼は活発に思索し、また詩作していたことは、彼の膨大な遺稿によっても証明される。
それらの資料から浮かび上がってくるのは、内観における真理としての誠の道の実践であり、もう一つは「気」を中心とする世界観であり、それらの思索を背景とした創作活動であった。
露風は長年にわたって芭蕉に親しみ、愛した詩人であったが、三鷹時代の露風は、一方で同時代の俳人である上島鬼貫
への関心を強く懐くようになった。
鬼貫は寛文元年(1661)の生まれだから、芭蕉とほぼ同世代の俳人で、元禄時代に伊丹派の中心的存在として 独立不羈の排風を鼓吹し、江戸の芭蕉に比肩するほどの俳人であった。露風の「鬼貫の人と俳道」(雨窓点滴<一> 全集第2巻)の説明を借りれば、儒学の造詣が深く、その影響を受けて一代の排風を樹立するにいたった俳人で、儒学に基づく俳諧を唱道し、生涯にわたって「まこと」の俳諧道を究めようとした求道の大家であった。
即ち彼の俳句の精神は、一言にして云ふと、常を得ると云ふことであった。常を得るとは、行ひ澄ますと云ふことである。倫常の精神を体として、行住坐臥、人格を磨き、さうして、俳句も亦此精神からして作ると云ふことである。
こうした内面的な修行に加えて俳諧の修行においても鬼貫は修正怠ることがなかった。その結果彼は、檀林の旧弊を
蝉脱し、「まことの外に俳諧なし」(『独ごと』)という大悟に至ったのであった。それは儒教的な倫理観と俳諧道が有機的に結合した 境地 であった。理知を去って天真のままに物事を観ようとする心の中にまことが宿るとして
、 一切の技巧を排し子供の純真さを得ようと努めたのである。
誠とは「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」という孟子の言を引くまでもなく、儒教倫理の根本的な徳目である。宇宙万物、天地自然を貫く真実で偽りのない理法が、人間にも備わっているものとして自覚反省し、その本性を日常生活において体現するところに、人生の最大の意義と愉楽を見出せと孟子は説く。鬼貫はこの儒教の教えに導かれて、宇宙的な原理との合一の中に俳諧道の理想を見出そうとする。「乳房握るわらべの、花に笑み、月に向かひて指さすこそ天性のまことにはあらめかし(『佛兄七車』序)という鬼貫の有名な一節があるが、それは思無邪、天真爛漫の天性をもって万物自然に共鳴共感することこそが、誠の俳諧道であるという主張である。いいかえれば、技巧や修飾に腐心する態度は、誠の精神からの逸脱であるとして大いに警戒する態度である。可不可、上手下手にとらわれず、「俳諧はみづから述べて自ら心をよろこばしむ」ものという自足の境地こそが、鬼貫の究極の俳諧道であった。
鬼貫についての露風の論及は、この「鬼貫の人と俳道」以外にも、すでに「鬼貫論」(『露風詩話』)があり、さらに草稿「鬼貫の句の評釈」、「鬼貫に就て」(三鷹市所蔵)があることによっても、貫之に対する関心の強さをはかり知ることができるだろう。彼は「鬼貫論」において、「鬼貫は、芭蕉を中心とする正風の俳諧以外に立って、しかも正風の骨髄を把持した人で、その精神に於て、却って蕉門の人々よりも、より多く芭蕉と相通ふところがある。」と評価し、また「鬼貫の人と俳道」においても、「芭蕉よりも大分年少であったが、気骨稜々として、俳諧上の識見に於ては、或は、芭蕉よりも、まさったところがある」とまで高く称揚している。「倫常の精神を体として、行住坐臥人格を磨き、俳句もまたこの精神から作る」という鬼貫のまことの道の生き方は、そのまま三鷹時代の露風の理想とすべき規範範となった。
短歌集「白萩紅萩」の中の次のような短歌は、そうした露風の境地を端的に示しているであろう。
芭蕉翁俳聖なりと人の言ふ鬼貫をこそ我はとりなむ
誠なる道のみひじり心なれさは言はざればいつはりにして
露風は、日本象徴主義を標榜し、その思想的・文学的根拠をもっぱら芭蕉に求めた。それは、芭蕉が到達した風雅の誠に心酔したことによるものあった。しかし、三鷹時代の露風は芸術の領域からそれを支える倫理の世界をより重視するようになった。そこから彼は独立不羈の「心・詞一体」論者に尊崇の念を懐くに至ったのである。露風に言わせれば、鬼貫が優れているのは、芭蕉の俳句が実際のところ苦吟の作であるのに対して、鬼貫の俳句は、作意を排した天性のまことの精神に基づいて、すらすらと詠んでいて渋滞するところがないからだというのである。思いによこしまがなく、嘘偽りのない日常の生活態度と技巧を排し、趣向を弄さず、天真爛漫な俳諧の世界とが不即不離の相関関係にあるところまで徹底させたところに鬼貫の価値があると露風は力説するのである。大正12年、修道院にあって露風は鬼貫に倣って「心にもない詩を作ってあざむくよりは、心ばかり、独り楽しむのは宜い」と達観し、「誠なるひじり心」をもって、「心を正しくして、清い気持ちで詩を作る」ことを心がけるようになる。そうして作った小詩篇を彼は「新詩風」と称して、『神と人』に80篇ほど収録している。『神と人』にはそれとは別に80篇ほどの短詩が掲載されているが、特にそれらと区別して「新詩風」としたのは、もちろん「倫常の精神を体として」作られた詩であることを強調する意図からである。
短詩は、詩の題を持ち、その内容には時にキリスト教的な自然観から詠われたものがある。しかし、「短唱」は番号のみで 詩 の題を記さず、すべて修道院の花鳥風月に対する純粋な感動を吟詠したものであった。露風は、この時期なおキリ スト教の影響下にあるとはいえ、一方で「誠に真の生活」を希求する方向へ歩みを進めていた。大正15年刊行の『神への 道』に収められた「宗教と詩との関係」において、彼は「善き生活の体現は、善き詩の表現と異らない。善き生活を以てよ き生を保ち、すべてのその生活を神に帰してみづからに誇らぬのは、正しい人の生活であり行為である」と改めて誠の精 神と詩作との関係を述べている。ここにおける「神」はなおキリストを意味しているが、その前段で彼はこうも言っている。「 心の核心こそ神に繋がるものである。茲に詩に於ける神の要素があると言へる。芭蕉が造化に参ずると言ってゐるのもこ の点に外ならない。」ここでいう「心の核心」を彼は「内心の秘奥」という。いいかえれば霊性である。『信仰の曙』の序では、「我等は我等に霊性あるを知る。思ふに人の霊性たるや神を認識せんがために存在しゐるものだ」と説明している。宗教心とはこの霊性を認識しようとする精神活動をいうのであろう。彼はそれを「ひじり心」という。彼にとって詩作はその営みの発現であった。三鷹時代に作られた膨大な手稿が残されているが、それらはすべて無心に詠われた「行住詩録」であった。
その作詩理念を詩の形式で、次のように詠んでいる。
ひとふしのうたにもなぐさみ、
ひとふしのうたをよろこび
たまゆらのいのちのひまに、
ただそれぞつかのまのいのちの
ひとふしなる、うたふなり。
ひとふしのうたになぐさむ
われなるかな。(『静境』)
束の間の命の感動を詩に詠い取り、詠い定めることによって、生きることの喜びや慰めを感じる。そこに自ら充足感を懐くという。この趣旨に沿った一例が次の「月光の下にて」である。
ほのぼのと我が心、
薄ら明りに匂ふがごとし。
なんの花か夜に咲き、
月光の下に薫じつ。
ほのぼのと我が心、
花を見て匂ひ染む。
道行けば月の色、 青くして遥かなり。
ああ花よ、夜の露よ。
ほのぼのと心酔ふ。
ここでは自然との一体感により、陶然としている作者の情調が、混然とした世界を描き出されていて、その中に束の間の生を生きる喜びが醸し出されている。このように文字通り行住坐臥、自らを楽しませ、自足するためだけを目的として、即興的に詠んだ詩篇がノートや反故紙に書き留められて残っているが、その数は1000を超える。
三鷹時代のもう一つの顕著な特徴は、生気論的な世界観に基づいて作詩がなされているという点である。具体例を二つあげて説明を加えた。
星が燦爛と輝いてゐる傍に
薄く白い雲がある
星雲の美は、冷厳で
静寂裡に、観想を起させる
宇宙の無辺際と冬威とは
人々の気を大にし
立錐形の森や林の木を
寒げに見せる
透徹した空気は
心身を引緊まらせ
更夜の感を一層深くさせる
地の陰影はあちらこちらに黒い
直感と美とは、星雲に対して
昂揚せられ
潜める思想が外延を行き
かくて夜は心情を塗抹する
閑寂として声音無く
天と地とに呼吸する自分が
明らかに意識せられ
囲繞する自然境の中の孤。(夜の印象)
浩然の気が充満する天地と昂揚し緊張する人間との一体感が最終連に見事に集約されている。荻生徂徠の言葉に「粛殺の気宇宙にふさがる」というのがあるが、まさのこの詩はその冷厳の大気を詠ったものである。「月光の下にて」と比べて詩に詠われている世界の大きさ、叙事と抒情という詩の内容において、スケールの大小は認められるとしても、自分と大自然が混然一体となり、自然界に融合する一つの存在であることに感動する点において、主題的には全く同一であることに変わりはない。異なるといえば、この詩においてはまがいもなく儒教的な世界観が明示されていることである。この詩の場合、感動の源は夜空にみなぎる壮大な気である。気は儒教において誠と並ぶ宇宙の根本原理とされている。そして気は生成原理としてのエネルギーであると考えられている。「月光の下にて」の場合にも、自然の精気を吸収することによって生命の充足を体感しているのである。もう一つ例をあげれば、「気体に見る春の印象」(『微光』)に詠われる期の表れである。
よきかな、光の中を歩むことは、
げに、そこには空しけれど、
気体に魅力ありて、
我が心を波だたすところの
目に見えざるものあり。
さなり、われは、
そを求むること、憧憬の日の若きに似て、
今も追憶と現在とに、
空なる花の如く我が心を向かわしむ。
いづこも紫光、
いづこも灝気の春、
げに、それぞ、われらが、
永遠の若き心を体現せるものなれ。
気は空虚で不可見であるが、それが運動することによって春らしい自然の息吹が可視的な姿を現す、春が具体的な形となって現れる。遍満する春の浩然たる気が再生の喜びを湧き立たせ、波立たせるというのである。
可視的な自然はいまだ空虚であっても、季節を司る天理はまず気によって自然界に息を吹き込もうとする。それを受けて人間もまた自然と同様に新しい生命を体内に宿らせる。「夜の印象」においては「気を大にして」とうたわれているが、ここでも同様に孟子の特「浩然の気」を作者は念頭において、宇宙の根本原理たる生命原体としての生成エネルギーを感得する。「永遠の若き心を体現」させることで、作者の「心を波立たす」のである。なぜなら、「そを求むること、憧憬の日の若きに似て、今も追憶と現在とに、空なる花の如く我が心を向はし」めているものとは、永遠性にほからないからだからである。
露風は未刊詩集『新しき生命』の序で次のように述べている。「新しき生命は、常に我等に宿らねばならぬ。生命は、必ずしも生理的な意味ばかりではない。真理の声明をも意味すると私は考へる。真理に従ってあゆむ。それが、われわれをして至高善に至らしめるの道である。さうして、そこに、真の生命がある。」詩に詠われた「永遠の若き心」とはここでいう「審理の生命」を意味していると考えられる。孟子は「善に明らかならざれば、その身に誠ならず」という。露風において「至高善に至らしめるの道」とはほかならぬまことに至る道である。その誠は繰り返し述べているように、宇宙自然を貫く根源的な理法である天童と自分を一体化し、その働きを自分自身の精神と肉体に包摂することである。露風はここでは宇宙の発出する生命感が自分の内部にみなぎっていくことを実感し、「よきかな」と手放しに喜悦するのである。こうした自然観を彼は「象うつり気変化して秋卓すぐる」と、武蔵野の四季の眺めに現れる造化の不思議をこのように詠んでいる。
「気」については実は「body(肉体)の中に山川草木の気を観る者は象徴主義者なり」という「冬夜手記」(『白き手の猟人』所収)の一句を引用するまでもなく、露風の象徴理論の根底にある世界観の中心思想であった。彼は若くして無形の、手に取ることもできない、生命の幻影ともいうべき「気」を言葉で具象化することを探求した詩人であった。しかし今老境に臨んで露風はそうした観念を棄て、精神作用を停止して、ひたすら生理的に官能を鋭敏に働かせて、自然の気と己の気とを融合させ適合させることで、生きていること、生命があることを見条件に手放しで実感して、歓喜に酔うのである。
ここにもまた、儒教の誠の精神が別の一面を投げかけている。子の境地を鬼貫ならば、「只、わが平生の気心、高天原に遊んで雪月花のまことなるに戯れ神妙をしらば、目に見えぬ夢の浮橋、足さはらずして踏むに心よき地、平平ならん」(『俳諧高砂子集』序)と表現するであろう。
大正13年(1924)6月30日、露風はトラピスト修道院を辞して上京した。ひとまず池袋近郊に仮住まいをしたのち、昭和3年(1928)7月、妻の親族から土地を譲り受け、現在の三鷹市牟礼に新居を構え、ようやく安定した穏やかな日々を送ることができた。「遠霞荘の記」によれば、「時は暑熱の激しき時候なれども、ここは幽閑にして涼気多く殆ど暑さを知らず」と述べ、また「田園の風光、清くして、涼気に富み、晴天の日には我が家のほとりなる武蔵野より遥かに富士山を見るを得てよろこばし」と記しているように、田園生活はすっかり露風に落ち着きと余裕をもたらしたようである。このような環境にあって彼は自分の半生を回顧すべく、自伝『我が歩める道』を執筆し、8月に厚生閣書店から刊行した。この作品を中心とした自伝の執筆意図は、自序で述べているように、思惟と制作との両面を描出するよう配慮したところにある。自序において「詩作しだしてから二十八年、私は芸術に精進することを少しもやめなかった」と顧みて、さらに「私の歩んだ道は一筋の道であった。その間にはいろいろの変化と思惟の推移とがあったけれども、根柢に於て私の志向は一つの道程だったのであり又今後も同一である」と確固たる信念を表明している。「私の歩みゆく道は、内観に於ては真理であり、感情に於ては、豊かな文芸の華である」とも述べて、求道者と表現者という宿命の道を推進していく決意をも新たにしている。
それでは、露風の後半生はどのような軌跡をたどったのであろうか。この後半生を便宜上三鷹時代と言わせてもらえば、この時代を単なる隠棲とか閑居という表面的な言葉で片づけてしまうのはどうかと思う。事実、この時代、彼は活発に思索し、また詩作していたことは、彼の膨大な遺稿によっても証明される。
それらの資料から浮かび上がってくるのは、内観における真理としての誠の道の実践であり、もう一つは「気」を中心とする世界観であり、それらの思索を背景とした創作活動であった。露風は長年にわたって芭蕉に親しみ、愛した詩人であったが、三鷹時代の露風は、一方で同時代の俳人である上島鬼貫への関心を強く懐くようになった。鬼貫は寛文元年(1661)の生まれだから、芭蕉とほぼ同世代の俳人で、元禄時代に伊丹派の中心的存在として独立不羈の排風を鼓吹し、江戸の芭蕉に比肩するほどの俳人であった。露風の「鬼貫の人と俳道」の説明を借りれば儒学の造詣が深く、その影響を受けて一代の排風を樹立するにいたった俳人で、儒学に基づく俳諧を唱道し、生涯にわたって「まこと」の俳諧道を究めようとした求道の大家であった。
即ち彼の俳句の精神は、一言にして云ふと、常を得ると云ふことであった。常を得るとは、行ひ澄ますと云ふことである。倫常の精神を体として、行住坐臥、人格を磨き、さうして、俳句も亦此精神からして作ると云ふことである。
こうした内面的な修行に加えて俳諧の修行においても鬼貫は修正怠ることがなかった。その結果彼は、檀林の旧弊を蝉脱し、 「まことの外に俳諧なし」(『独ごと』)という大悟に至ったのであった。それは儒教的な倫理観と俳諧道が有機的に
誠とは「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」という孟子の言を引くまでもなく、儒教倫理の根本的な徳目である。宇宙万物、天地自然を貫く真実で偽りのない理法が、人間にも備わっているものとして自覚反省し、その本性を日常生活において体現するところに、人生の最大の意義と愉楽を見出せと孟子は説く。鬼貫はこの儒教の教えに導かれて、宇宙的な原理との合一の中に俳諧道の理想を見出そうとする。「乳房握るわらべの、花に笑み、月に向かひて指さすこそ天性のまことにはあらめかし(『佛兄七車』序)という鬼貫の有名な一節があるが、それは思無邪、天真爛漫の天性をもって万物自然に共鳴共感することこそが、誠の俳諧道であるという主張である。いいかえれば、技巧や修飾に腐心する態度は、誠の精神からの逸脱であるとして大いに警戒する態度である。可不可、上手下手にとらわれず、「俳諧はみづから述べて自ら心をよろこばしむ」ものという自足の境地こそが、鬼貫の究極の俳諧道であった。
鬼貫についての露風の論及は、この「鬼貫の人と俳道」以外にも、すでに「鬼貫論」(『露風詩話』)があり、さらに草稿「鬼貫の句の評釈」、「鬼貫に就て」(三鷹市所蔵)があることによっても、貫之に対する関心の強さをはかり知ることができるだろう。彼は「鬼貫論」において、「鬼貫は、芭蕉を中心とする正風の俳諧以外に立って、しかも正風の骨髄を把持した人で、その精神に於て、却って蕉門の人々よりも、より多く芭蕉と相通ふところがある。」と評価し、また「鬼貫の人と俳道」においても、「芭蕉よりも大分年少であったが、気骨稜々として、俳諧上の識見に於ては、或は、芭蕉よりも、まさったところがある」とまで高く称揚している。「倫常の精神を体として、行住坐臥人格を磨き、俳句もまたこの精神から作る」という鬼貫のまことの道の生き方は、そのまま三鷹時代の露風の理想とすべき規範範となった。
短歌集「白萩紅萩」の中の次のような短歌は、そうした露風の境地を端的に示しているであろう。
芭蕉翁俳聖なりと人の言ふ鬼貫をこそ我はとりなむ
誠なる道のみひじり心なれさは言はざればいつはりにして
露風は、日本象徴主義を標榜し、その思想的・文学的根拠をもっぱら芭蕉に求めた。それは、芭蕉が到達した風雅の誠に心酔したことによるものあった。しかし、三鷹時代の露風は芸術の領域からそれを支える倫理の世界をより重視するようになった。そこから彼は独立不羈の「心・詞一体」論者に尊崇の念を懐くに至ったのである。露風に言わせれば、鬼貫が優れているのは、芭蕉の俳句が実際のところ苦吟の作であるのに対して、鬼貫の俳句は、作意を排した天性のまことの精神に基づいて、すらすらと詠んでいて渋滞するところがないからだというのである。思いによこしまがなく、嘘偽りのない日常の生活態度と技巧を排し、趣向を弄さず、天真爛漫な俳諧の世界とが不即不離の相関関係にあるところまで徹底させたところに鬼貫の価値があると露風は力説するのである。大正12年、修道院にあって露風は鬼貫に倣って「心にもない詩を作ってあざむくよりは、心ばかり、独り楽しむのは宜い」と達観し、「誠なるひじり心」をもって、「心を正しくして、清い気持ちで詩を作る」ことを心がけるようになる。そうして作った小詩篇を彼は「新詩風」と称して、『神と人』に80篇ほど収録している。『神と人』にはそれとは別に80篇ほどの短詩が掲載されているが、特にそれらと区別して「新詩風」としたのは、もちろん「倫常の精神を体として」作られた詩であることを強調する意図からである。
短詩は、詩の題を持ち、その内容には時にキリスト教的な自然観から詠われたものがある。しかし、「短唱」は番号のみ で詩の題を記さず、すべて修道院の花鳥風月に対する純粋な感動を吟詠したものであった。露風は、この時期なおキリス ト教の影響下にあるとはいえ、一方で「誠に真の生活」を希求する方向へ歩みを進めていた。大正15年刊行の『神への 道』に収められた「宗教と詩との関係」において、彼は「善き生活の体現は、善き詩の表現と異らない。善き生活を以てよ き生を保ち、すべてのその生活を神に帰してみづからに誇らぬのは、正しい人の生活であり行為である」と改めて誠の精神と
詩作との関係を述べている。ここにおける「神」はなおキリストを意味しているが、その前段で彼はこうも言っている。
「心の核心こそ神に繋がるものである。茲に詩に於ける神の要素があると言へる。芭蕉が造化に参ずると言ってゐるのも この点に外ならない。」ここでいう「心の核心」を彼は「内心の秘奥」という。いいかえれば霊性である。
『信仰の曙』の序では、「我等は我等に霊性あるを知る。思ふに人の霊性たるや神を認識せんがために存在しゐるものだ」
と説明している。宗教心とはこの霊性を認識しようとする精神活動をいうのであろう。彼はそれを「ひじり心」という。彼にとって
詩作はその営みの発現であった。三鷹時代に作られた膨大な手稿が残されているが、それらはすべて無心に詠われた「行住詩録」で あった。
その作詩理念を詩の形式で、次のように詠んでいる。
ひとふしのうたにもなぐさみ、
ひとふしのうたをよろこび
たまゆらのいのちのひまに、
ただそれぞつかのまのいのちの
ひとふしなる、うたふなり。
ひとふしのうたになぐさむ
われなるかな。(『静境』)
束の間の命の感動を詩に詠い取り、詠い定めることによって、生きることの喜びや慰めを感じる。そこに自ら充足感を懐くという。この趣旨に沿った一例が次の「月光の下にて」である。
ほのぼのと我が心、
薄ら明りに匂ふがごとし。
なんの花か夜に咲き、
月光の下に薫じつ。
ほのぼのと我が心、
花を見て匂ひ染む。
道行けば月の色
青くして遥かなり。
ああ花よ、夜の露よ。
ほのぼのと心酔ふ。
ここでは自然との一体感により、陶然としている作者の情調が、混然とした世界を描き出されていて、その中に束の間の生を生きる喜びが醸し出されている。このように文字通り行住坐臥、自らを楽しませ、自足するためだけを目的として、即興的に詠んだ詩篇がノートや反故紙に書き留められて残っているが、その数は1000を超える。
三鷹時代のもう一つの顕著な特徴は、生気論的な世界観に基づいて作詩がなされているという点である。具体例を二つあげて説明を加えた。
星が燦爛と輝いてゐる傍に
薄く白い雲がある
星雲の美は、冷厳で
静寂裡に、観想を起させる
宇宙の無辺際と冬威とは
人々の気を大にし
立錐形の森や林の木を
寒げに見せる
透徹した空気は
心身を引緊まらせ
更夜の感を一層深くさせる
地の陰影はあちらこちらに黒い
直感と美とは、星雲に対して
昂揚せられ
潜める思想が外延を行き
かくて夜は心情を塗抹する
閑寂として声音無く
天と地とに呼吸する自分が
明らかに意識せられ
囲繞する自然境の中の孤。(夜の印象)
浩然の気が充満する天地と昂揚し緊張する人間との一体感が最終連に見事に集約されている。荻生徂徠の言葉に「粛殺の気宇宙にふさがる」というのがあるが、まさのこの詩はその冷厳の大気を詠ったものである。「月光の下にて」と比べて詩に詠われている世界の大きさ、叙事と抒情という詩の内容において、スケールの大小は認められるとしても、自分と大自然が混然一体となり、自然界に融合する一つの存在であることに感動する点において、主題的には全く同一であることに変わりはない。異なるといえば、この詩においてはまがいもなく儒教的な世界観が明示されていることである。この詩の場合、感動の源は夜空にみなぎる壮大な気である。気は儒教において誠と並ぶ宇宙の根本原理とされている。そして気は生成原理としてのエネルギーであると考えられている。「月光の下にて」の場合にも、自然の精気を吸収することによって生命の充足を体感しているのである。もう一つ例をあげれば、「気体に見る春の印象」(『微光』)に詠われる期の表れである。
よきかな、光の中を歩むことは、
げに、そこには空しけれど、
気体に魅力ありて、
我が心を波だたすところの
目に見えざるものあり。
さなり、われは、
そを求むること、憧憬の日の若きに似て、
今も追憶と現在とに、
空なる花の如く我が心を向かわしむ。
いづこも紫光、
いづこも灝気の春、
げに、それぞ、われらが、
永遠の若き心を体現せるものなれ。
気は空虚で不可見であるが、それが運動することによって春らしい自然の息吹が可視的な姿を現す、春が具体的な形となって現れる。遍満する春の浩然たる気が再生の喜びを湧き立たせ、波立たせるというのである。
可視的な自然はいまだ空虚であっても、季節を司る天理はまず気によって自然界に息を吹き込もうとする。それを受けて人間もまた自然と同様に新しい生命を体内に宿らせる。「夜の印象」においては「気を大にして」とうたわれているが、ここでも同様に孟子の特「浩然の気」を作者は念頭において、宇宙の根本原理たる生命原体としての生成エネルギーを感得する。「永遠の若き心を体現」させることで、作者の「心を波立たす」のである。なぜなら、「そを求むること、憧憬の日の若きに似て、今も追憶と現在とに、空なる花の如く我が心を向はし」めているものとは、永遠性にほからないからだからである。
露風は未刊詩集『新しき生命』の序で次のように述べている。「新しき生命は、常に我等に宿らねばならぬ。生命は、必ずしも生理的な意味ばかりではない。真理の声明をも意味すると私は考へる。真理に従ってあゆむ。それが、われわれをして至高善に至らしめるの道である。さうして、そこに、真の生命がある。」詩に詠われた「永遠の若き心」とはここでいう「審理の生命」を意味していると考えられる。孟子は「善に明らかならざれば、その身に誠ならず」という。露風において「至高善に至らしめるの道」とはほかならぬまことに至る道である。その誠は繰り返し述べているように、宇宙自然を貫く根源的な理法である天童と自分を一体化し、その働きを自分自身の精神と肉体に包摂することである。露風はここでは宇宙の発出する生命感が自分の内部にみなぎっていくことを実感し、「よきかな」と手放しに喜悦するのである。こうした自然観を彼は「象うつり気変化して秋すぐる」と、武蔵野の四季の眺めに現れる造化の不思議をこのように詠んでいる。
「気」については実は「body(肉体)の中に山川草木の気を観る者は象徴主義者なり」という「冬夜手記」(『白き手の猟人』所収)の一句を引用するまでもなく、露風の象徴理論の根底にある世界観の中心思想であった。彼は若くして無形の、手に取ることもできない、生命の幻影ともいうべき「気」を言葉で具象化することを探求した詩人であった。しかし今老境に臨んで露風はそうした観念を棄て、精神作用を停止して、ひたすら生理的に官能を鋭敏に働かせて、自然の気と己の気とを融合させ適合させることで、生きていること、生命があることを無条件に手放しで実感して、歓喜に酔うのである。
ここにもまた、儒教の誠の精神が別の一面を投げかけている。この境地を鬼貫ならば、「只、わが平生の気心、高天原に遊んで雪月花のまことなるに戯れ神妙をしらば、目に見えぬ夢の浮橋、足さはらずして踏むに心よき地、平平ならん」(『俳諧高砂子集』序)と表現するであろう。